三時に公園
「もしもし、私」
家に帰ると、留守番電話に知らない声が入っていた。
「三時に来てね」
「公園に」
メッセージはなぜか三度にわかれていた。
我が家は全員携帯電話を持っている。家の電話にかけてくるのは、おじいちゃんの古い友達くらい。それにしては可愛らしい声だった。だあれ?可愛いけれど、落ち着いた声だ。間違え電話かな。だけど間違え電話って、今はあんまりないよね。みんな番号とか登録しておくから。
電話がかかってきたのは正午で、家には誰もいなかった。あたしは塾、おじいちゃんは将棋友達のところ、お母さんは図書館の仕事、お父さんはなんかよくわかんないけど仕事。弟は二日前から軽井沢にサマーキャンプに行っている。あたしも行きたいなー、軽井沢。 だいたい三時にどこの公園に行くの?名前も言わずに。
まあいいや、冷凍庫からガリガリ君を一本頂戴することにして。いつもうまく食べきれなくて、最後のほうが溶けちゃうからお皿にうつして食べよう。シャーベットを食べてるみたい。シャーベットって、なんだか懐かしい響きだ。なんでだろ。
それにしても、今日も暑いなあ。毎朝、暑くて目が覚める。
お父さんは朝の六時にジョギングに行って、走り始めは涼しいけどすぐにアスファルトがかんかん照りになると毎日同じ愚痴を言っている。それなら走らなければいいのにね。せっかくの涼しい時間、あたしはぐっすり眠ることにしています。
暇だ。夏は暇だ。本当は受験だから暇じゃないけど、夏には暇って言葉がよく似合う。時間がぼんわりして、柱とか壁とか洗濯機とかいろんなものがふくらんでるみたい。廊下にも行きたくないし、トイレにはもっと行きたくない。地獄みたいな暑さって言うじゃん?でも、地獄に行った人は話せないと思う。神とか地獄とか、簡単に言うのってまじで気に食わない。あたしには崇拝できるものがない。神、神、神。袖袖袖。
地獄のトイレに行かないと。おしっこを我慢するのは、不思議な気分。小学校一年生くらいに戻ったみたい。あの頃のうきうきしていた毎日を過ごしてた自分と、今の自分はつながっているのかな。明日の自分はまだ存在していないけど、たぶん明日も生きていて、今は存在していない自分が明日にいる。明日には今の自分はいない。明日も同じように暑くて暇だろう。時間はすごい膨大で、坂になっても気がつかないほど大きな道を歩いてるみたい。
いや、反省したわ。地獄あったわ。
トイレ暑すぎ。一瞬で汗が出る。手を洗って、顔も洗う。洗面所にはもらいもんのカレンダーがかかってる。百年くらい、八月のカレンダーを見ている気分。どこかの海岸沿いだ。九月十月と、紙をめくるだけで時間が過ぎていく。十二月はビルがぎゅっとつまった町。ビルが白くなって、肩を寄せ合っている。でもその次はない。その次、あたしはどうなっているだろ。
留守番電話の声をまた聞いてみた。どこの公園の、何日何曜日の三時なのかもわからないけど、もうすぐ三時になるところだったから、あたしは公園に行ってみることにした。家からいちばん近い公園は調整池とかいうので、大昔に反乱した川がまたあふれたら水没することになっているとか。そんなの、とても想像できないけど。
ベンチをぜんぶチェックしたけど、座っている人はいないし歩いている人もほとんどいない。一時間暑さをがまんして、とぼとぼ歩いて帰る。今日の三時じゃなかったのかな。夜の三時とか?だけど夏でも三時は真っ暗だ。コンビニで働いている人とか警察の人は起きてるよね。
じいちゃんとは限らないじゃんと、弟が言った。軽井沢から帰ってきて、臭い靴下と一緒くたにしていた土産のクッキーをぼりぼり食べている。
それならあんたってこともあるんじゃないの、ねえ、この可愛い声誰よ。弟は、んなわけねえだろ、と答える。あたしはなんだか気まずくなって、夜中の三時についてどう思うか聞いてみた。
俺、結構起きてるよその時間。何してるの。べつに。ゲームとかしてるんでしょ。俺、ゲームそんなにやらないよ、一気にやったら楽しくなくなるし、義務みたいになるから、俺はぎりぎりもう少しやりたいと思うところでやめる意志力を持ってるわけ。
あほらし、それならゲームの前に宿題やれよ、と言いたくなったけどなんだかお母さんみたいだからやめる。
夜中の三時に何を考えてるのか尋ねたら、弟は神妙な顔をして黙った。別々の部屋になってもう三年だし、今はこいつが何を考えているのかあんまりわからない。
翌日もその翌日もまた、誰もいないときに留守電があった。もしかして、家の出入りを見張ってる?
空を見上げると、大きな雲の上にきらきらしたものが光って見えた。それは空から降ってきて、地面に到達する前に消えてしまった。
もう、じいちゃんの友達の線は捨てた。これはきっと、あたしへのメッセージ。そんな気がする。
あたしは三時少し前に、公園に向かう。なんだか、腕がぞわっとするよ。鼻の頭とかふくらはぎが自分かから離れていく感じがして、動けなくなる。
いる。誰かいる。目の前のベンチに、誰かが座っているのがぼんやり見える。でも、男なのか女なのかもわからない。あたしの身体は動かないし。
電話をくれたのって、あなた?
あたしの声はかすれていた。ぼんやりした人が答える。
そうだよ。
それは確かに、あの留守番電話の声だった。
なんで。
なんでって、あなたが呼んだんでしょ。あたしのことを何度も呼んだでしょ。
呼んだ?あたしが?
いろんな人に呼ばれるんだよね、この季節は。
あなた、誰。
そうたずねた瞬間、ぼんやりした人は消えた。ふくらはぎと鼻の頭がむぎゅっと戻ってきて、あたしの身体は解放された。
「おまえ、昨日また公園行ったろ」と弟が言う。おまえって、姉に対して。まあ、あたしもあんたって言うけど。
「なんか、ぼうっとしてるし」
「そう?」
「今度、一緒に行ってもいいど」
「なんで?」
「べつに。でも暑いから、昼は無理だな」
あたしたちは夜中の三時に公園に行くことにした。親は疲れているからぐっすり眠っている。寝つきが悪いって、いっつも言ってるけどね。
公園には誰もいない。夜のジョガーとか、花火をして騒いでいる不良もいなかった。子供のころ、よく二人でここに来たよねと言ったら、弟はふんって笑った。
あ、もうすぐ三時になるよ。
突然、空が明るくなった。違う、公園が輝いてるんだ。まぶしいね。まぶしいな、と弟も言った。きらきらしたものが降ってきた。目の前のベンチに降りてくる。まぶしくて、よく見えない。
うっかり神という言葉を使いそうになったけど、それは神じゃない。あたしはどんなものにもそんな形容は使いたくない。だってそれは、とても言葉にできないものだから。少なくとも、あたしの力じゃできそうもない。
そろそろ帰るか、と弟が言った。公園は夜の暗さを取り戻していた。あたしは弟とふたり、家に帰った。
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