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【小説】文藝教室 ⑤ストーカーが走り出したので、追いかけた。

『私は今日、ストーカーに金を借りに行く。
 私のストーカーは、いつも白か黒のパーカーを着て私の住むアパートの近くに立っていて、前を通っても声をかけてくることはない。
 最初はこの人何やってんだろう、撮り鉄の人かなって思っていた。アパートの目の前には線路があるし、たまに踏切でカメラを構えていて、バイクの兄ちゃんに怒鳴られている人を見る。でも、そいつの目が向いているのは線路でも電車でもなかった。何を見ているんだ?誰か待っているのかと思ったら、私のことを見ていた。
 認知するまで、時間がかかってしまった。
 ところで私は今、彼氏の部屋に泊めさせてもらっている。バイトのシフトの関係でいろんな時刻に部屋を出るのだが、ストーカーはいつもそこにいて、パーカー姿で歩いている私をじっと見てくる。
 ほっといたら、電話がかかってきた。僕は以前、一日だけあなたと一緒にバイトをしたものです。この番号は…さんに教えてもらいました。そう留守電に吹き込まれていた。番号を教えた人間とはずっと会っていなかったし、番号を教えたかどうかも覚えていない。
 ストーカーはおとなしい。メールは週に二三回しかこない。殺すぞとか、この売女、みたいな文言は一度もない。今日も可愛いねとか、夜遅いのは危ないぞみたいなお父さん風もない。
 ただ私のことを観察して、事実をたんたんと述べてくる。それもあまり熱心に見ていない。この前は帽子を被っていましたね、だ。たしかにその日は小さめのベレーを被っていたけれども、それよりブルーのオフタートルニットワンピを着ていたのだから、普通はそっちを書くんじゃないか。いちばん適当だったのが歩いてましたね、だ。そりゃそうだろう。歩くよ、道なんだから。
 私は、今日、そんなストーカーに金を借りに行く。
 彼が仕事から帰る前に、部屋にあるものを全部詰めて運び出して自分もここから出るためだ。出ていって欲しいと言われてからもう一月が過ぎており、昨夜彼はついにブチ切れた。私が彼の趣味であるホラー映画を見ないで欲しいとお願いしたことや、夜は真っ暗だと眠れないので豆電をつけていたことや、夜中に二回トイレに行くことなんかが理由だと言っていたが、もともと無理やり住まわせてもらっていたし、家賃もほとんど払っていなかったのでそんなに無理して理由を並べなくても良かったのだ。なにか、申し訳無いことをしてしまった。
 服とかドライアーとか本とかシャンプーとか乳液とか自分のコップなんかをスーツケースに詰めながら、私は泊めてもらえそうな友達を思い浮かべてみたが、どの友達にも金を借りており、その中で一番少ないのが二万だったので、二万借りようと思った。
 アパートを出てしばらく歩くと、先週降った雪が誰も片付けないし車も人も通らないゾーンだけかたまって、泥にまみれて汚くなっていた。
 ストーカーはこの寒いのにジーンズに白っぽいシャツを着てパーカーを羽織っただけの格好で、その泥雪をじっと見ていた。細いフレームの眼鏡に、長い襟足。もっとごつい黒の眼鏡にかえて、髪の毛を短く切ったらいいのに。
 私が近づいていくと、驚愕してジーンズのポケットから手を出した。
「いつもどうもー」
 話しかけるのは初めてだ。
「な、なんでしょうか」
「あ、声、初めて直に聞いたわ。なんか電話と違うね」
 ストーカーは答えずに直立したままだ。
「あのさ、今日は君に頼みがあってきたんだ。もちろん断らないと思うけど。私のストーキングしてるんだし」
 もっと媚びる予定だったのだが、私はぶっきらぼうに引っ越しするから二万円貸してくれと頼んでいた。いっそのこと、部屋に住まわせてくれないだろうか。
「引っ越すんですか」
「うん。だからもうここに来ても無駄だよ」
「貸したらどうなりますか?」
「どうなるって、どうもなんないよ。もちろん返すけどそれだけだよ。ストーカーはやめてもらうよ。そもそもなんでストーカーなんかしてんの?暇じゃないとできないじゃん、ストーカーって」
「今は仕事休んでまして…」
「あ、そうなんだ。バイトで一日だけ一緒になったってメールに書いてあったけど、覚えてないんだよね」
「八月七日の水曜日です」
「ああ、お中元の?仕分けのやつか」
「そうです」
「一日だけなのに、よく覚えてるね」
「忘れません」
 ストーカーは忘れないという気恥ずかしい言葉とは裏腹に妙にきっぱりとした様子で、にゅいっと背筋を伸ばした。
「あー…そう。それは、ごめん。えっと、なんの話だっけ?」
「お金の」
「いや、それもだけど、なんでストーカーしてるのってやつ。私のこと好きってかなり変わってるよね、可愛くもないし親切でもないしこう見えて弱くもないし、いや、ストーカーされる人が弱いっていうことじゃないけど」
 私がまくしたてたている間も、ストーカーは顔色も変えずじっとしているので、私はなんとなく場つなぎのようなことを言ってしまう。
「返すまでの間はストーカーしててもいいよ。返したらやめてもらうけどさ」
「それってなんか変じゃないですか」
「変?」
「いや、いいです。今、手元に現金がないんで、ここで待っていてもらえますか。近くのコンビニ行くんで」
「わかった、でもなるべく早くお願い。寒いから」
 ストーカーが戻ってくるまで、つっかけで出てきたことをものすごく後悔しながら私はぐるぐる歩き回ることで暖をとった。コンビニまではゆっくり歩いても三分もかからない距離なのに、ストーカーはなかなか戻ってこない。お金を下ろすついでにコーヒーとかお菓子とかホットスナックを買ってきてくれるつもりなのか、たんに逃げたのか。私って、ストーカーにすら裏切られる女なのかな、なんて甘い感傷に浸っていると、よれよれしながら走ってくるのが見えた。
「すみません、お待たせして。前の人が手間取ってたもんで…」
  むき出しの金を手渡してくる。
「封筒も切れてて…」
「いいよ、そんなの。すぐ使うし。あれ?五万あるけど、自分の生活費もついでにおろしたの?」   
 私は二万円を折り畳んでジーンスのポケットにねじこみ、残りの三万を渡そうとした。
「いや、生活費ではないです。それはとっといてください。なんていうか、今までのあれです」
「え。それって、ストーカーのってこと?」
「はい」
「三万…」
「すみません。でも、もう返さなくていいです。そのお金」
「どういうこと?」
「もう現れませんので」
「はあ?なに、その幽霊みたいな言い方。返すまではつきまとってもいいって…」
 私が一歩前に踏み出すと、ストーカーはあとずさりして黄色い網のかかったサッカーゴールみたいなゴミ捨て場に背中をぶつけてよろめいた。
「現れなかったら、お金も返せないじゃん。次の給料日には返せるから」
「いいんです。とにかくそれで引っ越しの準備をしてください、僕はもう行きますんで」
「ちょっと」
 ストーカーが走り出したので、追いかけた。細い体がやじろべえのように揺れながら走っている。激痩せを心配されていたアイドルを彼が好きだと言ってから、ずっと近所の公園を走っていたから、こんなフォームで走るやつなんて簡単に追いつくと思ったのだが、白い背中はどんどん遠ざかって、駅へ行く最後の曲がり角で見えなくなった。遅れて駅につき階段を見上げると、真上から女子高生が二人見返してきただけで、やつの姿はなかった。
 私は肩で息をしながら自分の手の中を見た。しわくちゃになった一万円が三枚、しっかりと握りしめられていた。』

 アパートに帰るまえに、カクコは、商店街に並ぶ総菜屋やおでん屋の発する誘惑と戦わねばならなかった。何も見ないようにするにはうつむくか上を見上げるしかないので空を見上げると、遠くのほうに小さな雲のかたまりが見えた。そういえば、今年の冬は全然雨が降らない。いや、たんに自分が忘れているだけかもしれないが。 
 うまそうな匂いのするゾーンを抜けたあと、アパートまで十五分以上ある道を、カクコは今書いているこのストーカーくんのことを考えながら歩いた。このあと、友達と喧嘩させるか親と喧嘩させるか彼氏と喧嘩させるかを書こうというか、書かねばと思っていたが、正直どれも書きたくなかった。それより、ストーカーがどこに行ってしまったのかが気になるのだ。
 アパートのドアを開けると恐ろしいことに外気より冷たい空気が流れてくる。一人暮らしをするのはこの冬が初めてなので、アパートというものがこんなに寒いものなのかあるいはこの物件だけなのか知らないが、なんにしても寒い猛烈に寒いとつぶやきながらカクコはフローリングの床に公民館からちまちまと集めてきた市の広報誌を広げていった。着ているものを全部脱ぎ、キャスターつきの全身鏡をその前にすえ、すきバサミを手にする。
 美容院代を節約するために自分で髪を切ってはいたが、どうせならいまの肩先まである髪を短く切って、シャンプーと水道とドライヤーの電気代を浮かせたい。
 すきバサミで後ろの毛を切り落とす。毛がばさばさと裸足の足元に溜まる。なんだか中途半端な感じがする。鏡をじっと見て、そうか耳周りの長さに比べて襟足が長いからバランスが悪いのだと気づいて後ろをさらに切り、両側の膨らみがなくなるように、内側からざくざくすいていくと、全体がぺたんこになりなんとかバランスがとれた。
 体にはりついた髪を払い落とし、残った髪の毛が飛び散らないように忍び足で風呂まで歩いた。湯を当てると背中にはりついた毛が流れて気持ちがよくて、このまま死ぬまでこうしていたいと思うが、水道代もガス代もかかるのですばやくシャンプーをして洗い流す。すぐさまエアコンをつけたくなるのをこらえて散らばった髪を掃除し、鏡の中のショートカットを見ながら、カクコはノートの女はどんな外見なのだろうと考えていた。

文藝教室 ⑥に続く

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