ドアノブの小説
覗き込んだ右側の海はすごく濃くて時間がなくて、左側の海はきらきらして平面みたいで表面を歩けそう、っていうか飛べそうって感じるのはその先に首都高とかビルが見えて太陽があたっているからだ。どっちもまったく同じ海なのに。ふたつを分けているのは、私の足元のレインボーブリッジというでかい橋だ。
先週の金曜日、いわゆる聖地巡礼ってやつで、芝浦の埠頭公園に行ってきた。藤沢周の小説『箱崎ジャンクション』に出てくる場所なのだが、決して観光スポットにはなり得ない、純粋に子どもたちのための公園だ。
小説の中に出てきたイトキンビルはなかったし、職安という言葉が古くなったのかハローワークになっていた。この物語はふたりのタクシードライバーの話だから、歩いている私と物語の速度がぜんぜん違うな、と思う。
頭の中にあったその公園と、実際の公園もまったく違っていた。自分の想像って、自分の経験を超えないんだ。でも、だからこそこびりつくんだ。
実物を見たあとでもどっちの公園も頭から消えない。
帰り道に歩いたレインボーブリッジから見た海の色が、橋に分離されて色がまったく違って見えたみたいに。
話しは変わるけれど、
noteに小説をアップするっていう行為は不思議だ。
ネットは存在しない、ネットはオタク、ネットが必須っていう三世代を生きて、自分が書いてきた大半はその真ん中あたりで、今も書いているけれども、今までは誰に捧げるって、下読みをしてくれるであろう出版社の人に向けて書いていたから。
そのころの小説は黙って死んでから自分のところに帰ってきた。なんて言ったら大袈裟でセンチな感じになるな。
それから私はそれに何回手を入れたかわからない。推敲しすぎるこの悪癖は治らない。楽しくはないけれども、きっと好きなんだろう。
この間ファイルをひとつなくしたと思ったら、なんのことはない、二行くらいだけ生かして別の物語の中に入り込んでいた。
noteに書けてよかったなと思うのは、自分が一生懸命書いたもんが昇華したとかじゃなくて(一生懸命書いたことに格別意味はないと思うし)、長いこと黙って私の家にいた小説が、ひらりと出ていってくれたことがよかったよかった。
たとえば毎日歩く道の、喫茶店のドアの、ドアノブみたいな存在になってくれたから。私はそれを、ああ、そこにいるなと思ってただ見ているから。
それにしても、いい加減ファイル整理をしないと年を取りすぎてしまう。「怪談レストラン補助」「怪談レストランまとめ」「怪談レストラン印刷用」「怪談レストランメモ」といった具合にいつもテキストが増殖しているんだが、それに直しを入れたりくっつけたり離したりするから、永遠に終わらない。
みなさんは、何か書くたびにちゃんとファイリングしてますか?
追記。高所恐怖症なんでレインボーブリッジまじ怖かったけどまじきれいでした。でも陸地まじバンザイって思いました。