バングラデシュ建国時(簡易版)
かつて東パキスタンは、西パキスタンよりも人口が多く繁栄していた。
西パキスタン(現在のパキスタン)は、ヒンディー語と似たパンジャビ/ウルドゥー語が話されてきた地域で、東パキスタン(現在のバングラデシュ)は100%ベンガル語が話されてきた地域であった。
1970年の選挙でアワミ連盟が勝利したが、アワミに投票した90%はベンガル人であった。当時もパキスタンそのものが軍に支配されている国であり、軍はベンガル人の政府を望んでいなかったことが紛争のはじまりだった。
西パキスタン軍部は、ベンガル人が憲法を変えてパキスタンを自由で世俗的な国にしてしまうのではないかと恐れ、アワミ連盟の指導者のパキスタン首相就任を阻止した。アワミ連盟は軍へストライキを呼びかけたがその後、ベンガル人の怒りが非ベンガル人(ビハール州やジャールカンド州やウッタルプラデーシュ州出身者)に向かい、300人以上のビハール人達が殺害され、この暴動の鎮圧のために西パキスタンから軍が派遣された。抗議活動の参加者が次々と捕まり、アワミ連盟の代表も逮捕され、更なる講義活動が激しさを増した。
東パキスタンへ次々と軍が送られるとともに、「できるだけ多くの人を殺せ」との命令が下された。この西パキスタン(イスラム)軍の標的はベンガル人であったが、ヒンドゥー教徒がそれを凌いだ。ベンガル人にこの抗議活動を強いているのはヒンドゥー教徒だというのが軍の認識であったため、何千というヒンドゥー教徒の女性が強姦殺害され、男性は惨殺されたのだ。
数ヶ月の間に2000万人以上の難民がインドへ流入し、軍による虐殺はさらに激しさを増し、それはイスラム教徒のベンガル人にまで及んだ。
東パキスタンからの難民がインドで膨れあがり、インド首相のアンディラガンジーはベンガル人を助けるためにインド軍を東パキスタンへ派遣し侵攻を開始した。そして9万3千人の西パキスタン軍を降伏させ、アワミ連盟が東パキスタンをバングラデシュとして宣言したというのが大まかな建国の流れである。
このインドによる東パキスタン侵攻の際、アメリカが西パキスタンを支援したが、インド首相インディラは印ソ平和友好協力条約を締結してソ連から支援を受け、インドがこの戦争に勝利したことも注目すべき点である。
米大統領ニクソンはインドを攻撃するために、アメリカ最大の原子力艦をインド洋へ向かわせた。印首相インディラがソ連へ助けを求めると、ソ連はアメリカより先に原子力潜水艦を派遣し、「もしアメリカが介入すればソ連が応戦する」とアメリカを脅した。インディラとニクソンは犬猿の仲で、アメリカはインドが東パキスタンから撤退しなければインドに核を落とす計画であったのである。
その後も印パ紛争は続く…
ー北インド人の約半年前のおしゃべりを翻訳ー
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