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繋がっている昨日と今日と明日

僕は大学生の頃、オーストラリアにワーキングホリデーをしに行っていた。
一年間、まるっとケアンズにいた。

そこから約15年経って、当時オーストラリアで出会った友人が来日してきた。
涙が出るほど笑って、15年も経つのに全然変わらないねって言い合って、いろんな話をして、まるで15年前が昨日のことのように感じられた。

若い時の苦労は買ってでもしろって誰かが言う。
今時そんな考え古いって言われるかもしれない。
けど、だけど、僕は若い頃に苦労してよかったと思えることがたくさんある。

15年前と今とでは異なる部分が多いかもしれないけれど、これからワーキングホリデーに行こうとか、海外で生活してみたいとか、そういうことを考えている若者にエールを送れたらいいなと思い、つらつらと思い出を書いていこうと思う。


ワーキングホリデーをしようと思った理由

大学3年生のとき、あと1年ちょっとで卒業か、社会人になるのかって漠然と考えていた。
学生生活は楽しかった。
やりたいことをたくさんできたし、恩師と呼べるような先生との出会いもあったし、世間一般にいうところの学生らしい学生を謳歌していたように思う。

けど、なんだろう、このまま社会人になっていいのかなっていう不安があった。
やり残したことがあるんじゃないかって、今しかできないことがあるんじゃないかって、だからと言って何か強烈にやりたいことが明確にあるわけじゃないけど、なんか勿体ないなって思ってもいた。

僕は大学で学生団体を作っていた。
作っていたと表現すると大袈裟かもしれないけれど、まあ、本当に作っていた。
行政からちょっとした賞をもらえるくらいまで大きくなって、地域の企業と連携しながら騒いでいた。

その団体の活動が、外国人観光客に対するサービスの提供で、言葉も文化も異なる人たちと一緒にいろんなことをしてがむしゃらに遊んでいた。
流しそうめんをしたり居酒屋に行ったり、普通に日本の若者がしていることを提供するという内容のサービスを展開するものだったから。

でも、僕自身は海外へ行ったことがなかった。
パスポートすら持っていなかった。

飛行機で国境を越えてどこかに旅する経験に、自分の作ったサービスを提供しながらちょっと憧れていた。

海外旅行は、いつでもできる。
それこそ社会人になって、お金に余裕ができた方がずっと楽しい旅行になると思う。
だから学生のうちにそんなことはしなくてもいいと思っていた。

じゃあ、なんでこんなに、やり残したことがあるような気がしているのかはわからない。
これがいわゆる、若さゆえの悩みなのかなって。

だとしたら、そんなものは時間と一緒に消えていくから、今慌ててなにかをしなくてもいい。
このまま時の流れに身を任せればいい。

みんなと一緒に就職活動をして、企業訪問して、内定の有無で一喜一憂して、そんな感じで過ごせばいい。

そう思っていたのに、なんでか、どうしてか、ある日いきなり、海外に住みたいなと考えるようになった。

海外で住んでみたい

旅行はいつでもできるかもしれないけれど、住むのはいつでもできるわけじゃない。
一週間くらいなら可能かもしれないけれど、1ヶ月、半年、1年となると、難しくなってくる。

一度でいいから海外に住んでみたい。
何をしたい、何か目標がある、達成したいことがあるっていうわけじゃないけど、住んでみたい。

大学3年生の後期が始まったころだった。
海外旅行をしたいんじゃなくて、海外で住んでみたいと思い始めたのは。

就職活動を考えるのと並行して、海外に住むことも考え始めた。
どうしたら海外で住むことができるのかを調べ始めた。

住むということは、働くということでもある。
働くには、働くためのビザが要る。
働くためのビザとはつまり、就労ビザだ。
留学したいわけじゃないから、学生ビザは要らない。

そんなことをうっすら考えながら、パソコンでいろいろ調べていたら、ワーキングホリデーという制度があるという記事に行き当たる。

学校へ通いたかったら通ってもいいし、働きたかったら働いてもいい、入国してから一年間は結構自由にいろんなことができるビザがある。

これかも。
ほんとになんとなく、このビザがあれば今のもやもやした感情が消えるような気がした。

ワーキングホリデーをするまでの道のり

資金調達

ワーキングホリデーをしたいと思っても、すぐできるわけじゃない。
大学のこと、そしてお金のことが何よりネックだった。

さっそく親に相談してみた。
大学を休学してワーキングホリデーしたいって。

「勝手にしろ、ただしお金は出さない」
というのがうちの両親の返事だった。

思いの外あっさり認めてもらえた。
大学を休学してもいいことになった。
残る問題は資金のみになった。

大学の教学センターに休学について尋ねると、連続して二年間の休学が可能とのことだった。
だとしたら、一年間働いてお金を貯めて、その次の一年間でワーキングホリデーをすることが可能になる。

できるかもしれない。

結局親に頼んでお金を支払ってもらうのではなく、自分の力でなんとかできるかもしれない。

大学に休学について詳しく聞き、両親にもその説明をし、中途半端に始めていた就職活動を止め、僕は3年生が終わるタイミングで大学を2年間、休学することにした。

休学する前、時間に余裕があるうちに、と思ってパスポートも申請しに行った。
結構面倒だった。
今は電子申請が可能になっているけれど、当時はそんなものなくて、ひたすら並ばされた。
ひたすら時間をとられた。

貯金はむずかしい

一年間アルバイトでワーキングホリデーのお金を貯めようと考えていたけれど、思っていたよりも貯金は難しかった。
フルタイムでアルバイトして、バイト先も2つ掛け持ちして、それでもぜんぜん貯まらなかった。

ここの詳細は今回の趣旨と異なるので割愛するけど、アルバイトでお金を貯めるのってすごく難しい。
まーじで貯まらない。

貯金と並行して、僕はどこの国にワーキングホリデーしに行くのかも考えることにした。

一番近いところだと香港が立候補にあがった。
日本から飛行機ですぐだ。

でも、英語すらまともにできないのに香港の言葉なんて一切わからない。

ワーキングホリデーといえばどこの国なんだろうと探していると、オーストラリアが人気だという話を耳にした。
日本からほぼまっすぐ南で、公用語が英語。
いろんな国からワーキングホリデーに訪れる人が多い。

オーストラリアがいいかもしれないと思った。
なんとなく、明確な理由があったわけじゃないけど、ここでいいんじゃないかって。

ビザについて調べると、少し前までは貯蓄額とか関係していたみたいだが、今は申請すればすぐにビザがもらえるらしい。

試しにネットでビザの申請をしたところ、すぐメールで返事がきた。
パスポート番号と紐づいているらしく、もう渡豪した日から一年間有効になるらしい。

ビザの申請はあまりにも簡単すぎて心配になるほどだった。

ビザの申請も完了し、残るは貯金だけになったけど、ほんとうに、ビビるくらいうまく貯めることができなくて、最終的に旅館で住み込みバイトをすることになる。

熱海の旅館で募集があったから、人生初の熱海に行った。
観光として有名だからいろんな誘惑があるかもなってちょっと期待したけど、温泉しかないところで、娯楽という娯楽があまりにも少なくて、3ヶ月の住み込みで結構な額を貯金することができた。

フルタイムでアルバイトするより住み込みバイト。
繁華街じゃなくて娯楽の少ない場所での住み込みバイトが一番貯金できる。

休日はどこへも行かず(行けず)、書店で本を買って読むだけ。
唯一の娯楽は読書。
でも賄いは美味しいし温泉も入り放題だしみんな同じように住み込みで働いている人ばかりで楽しかった。

正月は辛いよ

大学を休学してオーストラリアにワーキングホリデーする。
正月、親戚中が集まる中で話題は僕のことになった。

「何か目標があるのか」
「明確な目的を持て」
「そんなふらふらして、何を考えてるんだ」

まあ、いろいろ言われた。
そしてその言葉たちに対し、何一つ言い返すことができなかった。

そりゃそうだ、ぜんぶがただなんとなくやりたいっていう気持ちだけで動いていて、TOEICで900点取りたいとか、外資系の会社に就職したいとか、そういうの、何もない。

やりたいことを実行することはいけないことなのだろうか。

目標を持てと、いろいろな場面で耳にする。
ふらふらするなと、いろいろな場面で耳にする。

目標がなく、やりたいことをやっているだけというのは、悪なのか?

この親戚たちの集まりが、結構な苦痛だった。
15年経った今でも思い出すくらい苦痛だった。

大人はみんな言うよね、そういうこと。
俺を納得させてみろ!的なやつね。
俺すら納得させることができないやつに何ができる!的なやつ。

だるいって。
ただやりたいことをやってるだけの何が悪いんだろ。
だるすぎる。

こういう考えは間違っているのかもしれないとずっと思わされてきた。
世の中のみんなができていることなのに自分にはできないんだって。

でも大人になってから、30歳を過ぎてからだけど、江國香織の『彼女たちの場合は』を読んで救われた。
ただ旅に出たいだけで、それ以上も以下もなく、ただ旅に出たいから旅するだけ。
それでいいんだって肯定してもらえたのがこの小説。

ずっと長い間、ただ海外で住んでみたくてワーキングホリデーしたっていうのが悪いことのように感じていたけど、それでいいんじゃんって思えた。
やりたいことやろ。
周りの大人、信じている大人に何言われてもいいじゃん、自分は自分なんだから。

僕は約15年かけて当時の大人たちの呪いから解放された。
だからここで伝えたい。

若者よ、もっと自由に生きろ。

オーストラリアへ

ここから先がワーキングホリデーの話になる。
誰かの為になることはたぶん何も書かれてない。
ただ僕がどこで何をしたのかってことだけが書かれてある。
ここが底辺だと思って、こんなやつでもなんとか出来てるんだからきっと大丈夫だろうって思ってほしい。

ケアンズ

ケアンズという都市がどこにあるのかもわからない状態で、とりあえずチケットが安かったからケアンズに行った。
結果として僕はケアンズに1年いたことになる。

ケアンズに1年いた、と言うと驚かれる。
まあ、何もない都市だから。

観光できる場所もないわけじゃないけど、すぐ飽きる。
大都市でもないから徒歩でぐるっとできてしまうくらいの大きさ。

僕は住みに行ったから別にそういうのに興味がなかったけど、ワーキングホリデーで観光しながらそこでしかできないキラキラ体験をしたいのであればケアンズはおすすめしない。

めちゃくちゃ暑いしめちゃくちゃ雨が降るしめちゃくちゃ虫が多い。
あと海は汚い。

ケアンズの空港に降り立ったとき、むわっとしたのを覚えている。
湿ってる感じ。

これからどんなことが起こるんだろうっていう期待と、果たして無事に帰国できるのだろうかっていう不安が入り混じりながら巨大なキャリーケースを引きずって歩いた。

一応、一週間くらい泊まるための宿は事前に予約してから行った。
だからその宿に向かわなくてはならない。

当時はスマホなんて普及してなかったから印刷してきた紙に書いてある住所をタクシーの運転手に見せてその宿まで連れて行ってもらった。
タクシーの運転手からめちゃくちゃ喋りかけられたけど一言も理解できずに苦笑いして乗っていた。
窓から見える景色が日本のものとは異なっていたのが印象的だった。

宿、といっても格安のバックパックに到着し、チェックインしようとフロントに向かう。
今日予約している者です。
そう言いたいのに一切なにも言葉が浮かんでこない。

念の為に伝えておくと、僕の英語の成績は下から数えた方が早い下の下だ。
中学英語すらおぼつかないレベルだ。

宿のフロントにいた女性はこちらを見て早口で何かを言っている。
僕は理解できなくて、とりあえず印刷してきた紙を渡す。
その紙を見て、彼女がまた何かを早口で言っている。

I do not understand English.
僕は震える声でそう伝えた。

僕の言葉を聞いた彼女はまたもや早口で何かを告げる。
I do not understand English.
僕は再度告げた。

彼女は呆れたような顔をしてまたもや早口で何かを喋り出した。
けれど僕は何一つとして理解することができなかった。

こういうことだ。
海外で住むというのはこういうことの連続だ。

僕は涙を堪えて再度告げる。
I do not understand English.
彼女は両手を肩まで上げて呆れポーズを作る。
それを見て悔しさと恥ずかしさを感じる。

受付に別の女性が現れた。
二人が僕を見ながら会話する。
こちらをちらちらと確認しつつ、またもや早口で問いかけてくる。

何を言っているのかはわからなくても、彼女たちがイライラしていることだけは伝わってきた。
英語を理解しない僕に対し、彼女たちは怒っている。

またもや早口で何かを告げる。
かろうじて「パスポート」と「セキュリティ」という2つの単語のみ聞き取れた。

「パスポート」と「セキュリティ」という言葉を聞き取れたとして、僕はNoとしか言えない。
そんな重要な単語のみ聞こえてきてYesと言えるわけがない。

イライラしている受付の女性たち。
泣き出しそうな僕。
どちらも引かない。
ここが地獄。

僕が黙って彼女たちを見つめていると、後ろから別のお客さんがやってきた。
彼女らはそのお客さんに対し、おそらく僕のせいで業務が止まっていることを伝えた。

そのお客さんも交え、3対1で睨み合いが始まった。
そう、ここが地獄。

日本に今すぐ帰りたいと思った。
まさか到着して数時間後、宿にすら泊まれない状況に陥るなんて考えてもみなかった。

ネットで予約した宿に泊まることなんて簡単だと思っていた。
日本でならそんなところでつまづくことはありえない。

言葉が違うというのはつまり、宿に泊まることすらできないのだ。
コミュニケーション以前の問題だ。
何もわからない。
わかるのは声から滲む人の感情のみ。

彼女ら3人はなにやら会話を始め、一斉に僕を振り向いて、
It's OK!
と言い始めた。

何がOKなのかは不明だが、ひたすら僕に向かってIt's OK!を繰り返し始めた。
3人ともそれ以外は言わなくなった。
何から何まで理解することができなかったけど、僕は宿に泊まれた。
泣きたかった。

英語ができないって勉強じゃないんだから

英語の点数が悪くても恥ずかしいと思ったことはない。
けれど、人との会話ができないというのはこれほどまでに恥ずかしいことなのかっていうのを思い知らされた。

なんとか泊まることができたホテルで早速、同室になった欧米人に話しかけられた。
何を言っているのかわからなかったので、黙って彼を見つめるしかなかった。

スーパーに買い物へ向かった。
調味料や食材を持ってレジに向かった。

レジ袋が必要かどうかすら伝えられない。
いくら必要なのかも言葉で聞いて理解できない。
現地の幼稚園児ですらできることが、今の僕にはおぼつかない。

ホテルのキッチンを使って料理をしたいと思った。
共同で使うキッチンだ。

誰か他の人がいるところでもし喋りかけられたら何も返事することができないと思い、部屋でりんごを食べた。
ケアンズのりんごは小さい。

一週間なんてあっという間に過ぎた。
次のホテルに移動することなんてできっこないから、宿泊を伸ばしたいと思った。

受付に行くと、僕に鋭い視線を向けた女性ではない女性がいた。
ジェスチャーを使いながらもう一週間宿泊を伸ばしたいということをなんとか伝えた。

オーストラリアにいるのに、ぜんぜん英語を話していない。
これ、このままでいいのか?

何か変えなきゃと思い、僕は語学学校に入学することを考えた。
日本と違い、学校は週単位で通う日数を選べた。

とりあえず四週間、そこで学んでみようと思った。
今よりマシになるだろうと願って。

まだ、僕のオーストラリア生活は一週間しか経ってない。

語学学校は行くべき?

結論から言うと、どっちでもいい。
たった数週間英語を学んだところで人間に変化なんてない。

むしろ、語学学校というのは同じ日本人が多いから、どうしても日本語に頼ってしまうことになる。
同じような心細さを抱えた者同士、ついつい母国語で会話してしまう。

僕はその語学学校で一番下のランクのクラスに割り当てられた。
何も理解できていませんねっていう証明。

一番下のランクのクラスっていうのは、基本的に日本人と韓国人しかいない。
先生は現地の人で、常に英語を喋りなさいって指導するけど、必ず母国語でコミュニケーションをとってしまう。

僕ももれなくそうだった。
英語を学びにきたのに、英語よりも日本語で喋っている方が多かった。

英語の不規則動詞表を覚えながら、これって過去形でも同じ発音なんだねって日本語で喋る。
先生に当てられても上手に答えられなくて、隣にいる日本人に、今なんて言ってたの?と日本語で聞く。
学校が終わったら日本食を食べることができるレストランに日本人同士で行き、日本語で注文して日本語で歓談する。

たまんねえよ。

語学学校に入学したのが間違いだったとは言わない。
けど語学学校に入学すれば語学が上達すると考えていたのは間違いだった。

ぜんぶ自分次第だ。
なにもかも自分の責任だ。
甘えればどこまでも甘えられる。

僕は語学学校で日本人に甘えた。
だからぜんぜん英語は上達しなかった。

携帯電話の契約

語学学校の四週間が終わり、何もない暇な日常が戻ってきた。
英語ができなくても慣れとは怖いもので、なんとなくで生活できるようになっていた。

ちょっと不便だなって思うのは携帯電話がないことだ。
日本の携帯は当時海外で使うと信じられないほど高額請求された。
だから現地で契約するしかない。

日本でもたまに見かけるプリペイドSIMを契約することにした。
買って携帯に挿せばすぐ使えるからだ。

僕はオーストラリアで人生初のスマホを手に入れた。
LG製のスマホだ。
確か機種代が日本円で2万円くらいだったと思う。

ここにスーパーで売っているSIMを挿せば使えるのだが、これは当時だからなのか今もなのか不明だが、電話番号が非表示になるのがデフォルトだった。
誰から電話がかかってきたのかわからないのが基本でというシステムだ。

どうして着信元が不明となっているのかは未だにわからない。
そしてそれを解除するためには携帯電話ショップへ行って解除してくれと申し出る必要があった。

僕はショッピングセンターの中にある携帯ショップへ足を運ぶ。

携帯ショップは混んでいた。
世界共通で携帯ショップというのは混むものなのかもしれない。

とりあえずジェスチャーで非通知表示になっていることを店員に伝える。
忙しそうにしている店員はこちらに待つよう指示し、どこかへ消えていく。

しばらく待っていると、店員が受話器を僕に寄越してきた。
通話しろ、ということらしい。

恐る恐る受話器を耳に当てると、流暢な英語で何やらオペレーターが喋り出した。

僕は対面でジェスチャーをしながら自分の意思を伝えることはできるようになったが、通話越しに自分の意見を伝えられるほどのレベルに達してはいない。

ひたすら英語で喋りかけられながら、僕はなんとか相手に伝えようと試みる。
非通知を解除してほしいと。

しかしうまく伝えられない。
なんとなく相手の言っていることを繰り返してみたら、YES!と勢いよく返事がきたが、どうして相手がそんな元気に返事をしてくれたのかはわからない。

受話器を持たされ、ショップに一人ぽつんと立たされ、誰も僕を助けようとしてくれない。

I do not understand English.
僕はお決まりのフレーズを告げる。

I do not understand English.
そう呟きながら周りを見渡す。

I do not understand English.
受話器越しに困惑する声が聞こえる。

 I do not understand English.
周りにいた他のお客さんたちが僕をみながらざわつき始めた。

I do not understand English.
僕は泣いていた。

周りのお客さんが店員さんを呼び止め、僕の様子がおかしいことを説明しているのがわかる。
しかし店員さんも忙しいのか、なかなか僕のところに来てくれない。

僕は受話器を握りしめながら泣いていた。
オーストラリアで泣きそうになったことはあれど、本気で泣いたのはあれが初めてだった。

結局、しばらくして店員さんが僕の受話器を受け取り、なんやかんや会話をし、It's OK!と言われて無事に非通知表示は解除された。

なんだよIt's OK!って。
大嫌いな言葉だよIt's OK!って。

旅は道連れ世は情け

スマホを手に入れて、学校にも行っていない僕は基本カジノに入り浸っていた。

最高だよ、カジノは。
無料でドリンクが飲めて、いろんな遊びができる。

最初こそびくびくしてぜんぜんお金をかけることができなかったけど、慣れてしまえばすごく楽しい。

めちゃくちゃカジノで負けた。
この世の終わりかってくらいに負けた。
でも楽しかった。

昼間はカジノに行って、夜は泊まっているバックパックで安酒を飲む生活になっていた。
オーストラリアはワインが格安だ。
2リットル500円くらいで買える。
僕はひとりで、しかもオーストラリアで自堕落な生活をしていた。

海外のいいところはひとりで飲んでいても近くの誰かが喋りかけてくれるところだと思う。
僕もなんかよくわからないけど周りにいた人と仲良くなって騒いだりしていた。
ぜんぜん英語はできるようにならないけどとにかく騒いでいた。

結構いろんな人に出会った。
一緒にBBQしたり夜の街に繰り出したり、意味わからないけど楽しい時間を過ごせた。

当時流行っていたFacebookを交換して、互いに連絡を取り合うくらいまで仲良くなった人も多い。

みんなケアンズに訪れて、そして去っていく。
ケアンズというのはそういう土地だ。
同じようにワーキングホリデーできていても、ケアンズに留まろうという人はほとんどいない。

出会って、別れて、また出会って、また別れて。

たくさんの初めましてとたくさんのバイバイを経験した。
見送るって、さびしいものだ。
手を振りながら小さくなっていく人を、また会えたらいいねって言いながら見えなくなるまで見つめる。

出会いと別れを最も経験した一年だった。
後にも先にも、あんなにたくさんの出会いに恵まれることも、あんなにたくさんの別れを経験することも、もうないだろう。

だから僕は結構、人との出会いにわくわくするようになった。
たとえすぐ別れることになっても、一緒にいられた時間が短かったとしても、そういうのって関係ないよなって思えるようになった。

また会いたいと思えば、いつでも会える。

働くよ

さて、自堕落な生活をするにもお金は必要だ。
つまり働かざる者食うべからずだ。

オーストラリアの場合、履歴書に決まった形式はない。
自分で自由に作って応募する。

僕も自分の履歴書を作ることから始めた。
英語はできないけど、いろんな人の助けを借りて履歴書を作った。

日本人が働く、となると、多いのは日本食レストランや日本人向けのお土産物屋さんだ。
だいたいみんなそのどちらかで働く。

なんとなく、僕はそこで働きたくないなって思った。
せっかくオーストラリアにいるんだから、ここでしかできないようなことしたいなって。

だからひたすら自分の履歴書を持っていろんなお店に雇ってほしいとお願いして回った。
ケアンズの場合、僕みたいなワーキングホリデーできている外国人が多いため、当時は自分が働きたいと思った場所に行き、そこに自分の履歴書を渡してお願いすることから応募が始まる。

僕はケアンズの端から端までのほぼすべてのお店に履歴書を配り歩いた。
何度も何度も断られた。
就職活動で御祈りメールが届いてどんよりするなんてもんじゃない。
言葉が通じないのに足を運んで履歴書を渡してなんとか面接してもらえませんかとお願いして回るのだ。
そして直接首を横に振られるのだ。

この、首を横に振られるっていう表現は、正しいけど正確ではない。
履歴書を渡すと、だいたい流暢な英語で喋りかけられる。
その英語が聞き取れなくて聞き返すと、結構嫌な顔をされる。
嫌な顔をされるだけならまだしも、汚い言葉(当時は意味がまったくわからなかったけどそれを理解できるようになった今では初対面の人に投げる言葉としてこれ以上ないというほどに汚い言葉)を言われることも結構ある。
もちろん差別的な発言、行動を取られることもある。
凹むよ。

大袈裟ではなく、ほんとうに200社くらいは回った。
めちゃくちゃ気持ちが沈む日々だった。
もう無理だと何度も諦めた。
帰国しようと何度も考えた。

気がつくと眠れない日が続くようになっていた。
今日も駄目だった、明日も駄目かもしれない、明後日も駄目かもしれない、もう自分には出来ることなんてないのかもしれない。
夜になるとひたすら自分否定が始まった。
理由もなく涙が溢れて止まらなかった。
食欲も失せた。
それでも足は止めなかった。

そんな時、日本食レストランで働かないかと誘われた。
よく食べにいくところだった。

「すみません、日本食レストランでは働きません」
不安で心配で死にたくなるくらいの毎日の中で、それでもプライドだけは保っていた。
捨ててしまえばいいくらいの安いプライドだけど、これを捨てたら自分には何も残らない気がした。

ホテルの受付に、履歴書を出しにいった。
受付にはスラっとした綺麗な白人の女性がいた。
彼女は僕の履歴書を、まるで汚物を持つかのように親指と人差し指で摘んだ。
どうしてそんな扱いをされないといけないんだろうと思いながらその光景を見ていると、彼女は僕に、とっとと帰るようホテルの出入り口を指差した。

英語ができない日本人と、英語が堪能な欧米人なら、圧倒的に英語が得意な欧米人を雇うだろう。
英語ができない日本人と、英語が堪能な日本人なら、圧倒的に英語が得意な日本人を雇うだろう。
つまり、僕を雇ってくれるところはどこにもない。

自分の語学力の無さに絶望した。
意見を伝えることすらできない。
気持ちを表現することもできない。
なんでそんな態度をとられないといけないのかと文句を言うことすらできない。
これが現実、ここが地獄。

吐き気がする。
胃が痛い。
頼れる人はいない。
苦しい。
さびしい。
お金も無くなりそう。
不安。
暗い。

僕は限界を感じていた。
オーストラリアにきてから4ヶ月が経とうとしていた。

眠れないまま朝がやってくる。
今日も履歴書を持って街中を歩いていく。
でももう無理かもしれない。
何もできない。

ふと、僕のスマートフォンが鳴り響いた。
知らない番号からの着信だった。

通話ボタンを押して、Hello?と言いながらスマホを耳に当てると、英語で何かを喋っている声が聞こえる。

Do you understand?
そう聞かれたので、No, I don't understand well.と返事した。
すると電話口の女性は、I'll text you later, okay?と言ってくれた。
OK.と返した。

すぐに僕のスマホにメッセージが届いた。
頑張って訳すと、あなたを雇う、と書いてあった。

テキストに書かれてあったホテルにすぐさま向かうと、そこの受付には先日僕の履歴書を汚物のように扱った女性がいた。
彼女にスマホのテキストを見せると、しばらくそこで待てと言われた。

やってきたのは陽気なアジア人女性だった。
聞くと彼女は台湾人だった。
そのホテルのマネージャーをしていると言った。

僕はそこのホテルでハウスキーパーとして働くことになった。
ぜんぜん英語は理解できなかったけど、台湾人のマネージャーは僕がわかるまで何度も繰り返し教えてくれた。
働くにあたって必要な書類を記載してほしいと言われ、その日はその書類を持って帰宅した。

宿でその書類を記載しようと試みたが、さっぱりわからない。
何をどう書けばいいのかまったくわからない。

僕が書類を前に呆然としていると、同室の男性が助けてくれた。
ここに名前を書け、ここにチェックを入れるんだ、ここに銀行口座番号を書くんだ。

何度も彼にお礼を言いながら、僕は書類を書き上げた。
翌日、その書類を持ってホテルに向かうと、その日から僕はハウスキーパーになった。

ハウスキーピング

僕が働くことになったホテルは3階建の建物で、大きなプールをぐるっと囲むような作りをしていた。
働く時間は午前中のみ、宿泊客とチェックアウトした部屋を順番に綺麗にしていくのが仕事だ。

どの客室を掃除する必要があるのかが書かれた紙を見ながら、一室ずつ清掃していく。

チェックアウトした後の部屋は客がいないので、そのままスペアキーで開けて綺麗にする。
しかし、宿泊客のいる部屋を綺麗にする場合、外からノックし、「ハウスキーピング」と声をかけてから入らないといけない。

たいていは朝からみんな観光に出ているので問題ないのだが、たまに部屋に残って読書していたりする場合もある。
だから声をかけてから部屋からする音を確認しなければならない。

たまに、後で掃除してほしい、と言われたにも関わらず、僕がそれを聞き逃して(理解できなくて)しまい、マネージャーから怒られることもあった。

時給は当時で2000円くらいだった。
午前中の仕事のみで、毎月日本円にして20万くらいは稼ぐことができた。

そのホテルで働いていた日本人は僕だけだった。
だからすべてのコミュニケーションを英語で行わねばならず、最初のうちは言われたことをひたすらこなすしかなかった。

200社から断られ、ようやく手にした仕事だ。
そんなの、楽しいに決まっている。

僕は毎日必ず笑顔で挨拶するよう心がけた。
スタッフだろうと客だろうと、そんなの関係なくみんなにGood morning!と挨拶をするところから始まった。
訳がわからなくても笑顔で挨拶していたらなんとかなる。

どれだけ仕事がきつくても、仕事が得られなくて眠れない日があったことを思い出せば力が沸いた。

そんな僕の姿を見ていてか、僕の仕事はどんどん増えていった。

当初、僕はハウスキーパーとして雇われていたのだが、次にポーターとして荷物運びをするようにもなった。
ポーターのおっちゃんにも元気よく挨拶していたら次第に仲良くなり、いつしかおっちゃんの仕事を手伝うよう指示されるようになったのだ。

荷物運びは結構重労働だった。
ホテルにはエレベーターがないため、3階の部屋まで重い荷物を階段で運ばなくてはならない。

僕が肩で息をしていると、おっちゃんがマッチョポーズをして僕を笑わせてくれた。

ハウスキーパーをしながらたまにポーターの仕事をしていたら、次はホテルのレストランを手伝えないかと頼まれた。
OK!と笑顔で返事すると、レストランの清掃から始まった。

最初、レストランは結構汚かった。
ホテルのレストランなのにこんなにも汚くていいのか?ってくらい汚かった。

だから言われていた清掃時間を過ぎてからも、その後に予定が詰まっていなかったら掃除を続けた。

僕がレストランの清掃員を始めたタイミングで、レストランのシェフが変わった。
今までは小太りな白人男性だったのだが、アジア系の気の強そうな女性になった。

彼女は最初、レストランが汚いことに怒っていた。
僕にもっと綺麗に掃除するよう指示した。

やっぱりここって汚いよな、と思ったので、僕は言われた通り、頑張って綺麗に掃除した。

いつものようにハウスキーピングをしていたら、徐々にレストランを手伝ってほしいと言われる頻度が多くなった。
ある時、こんな早い時間からレストランの掃除か?と思っていたら、配膳から手伝わされた。

ハウスキーピングと違い、客からいろんな要望を言われるのが配膳係だ。
まったく英語がわからないままの僕は、客から言われた言葉をそのままそっくりシェフに伝えることしかできない。

僕の言葉を聞いて、シェフが客に説明をしにいく。
僕はシェフに持って行けと言われたものをひたすら運ぶ。
怒涛の毎日だ。

そこで覚えた英語、
It's coming!
もうすぐできるから待ってろという意味。

僕が英語が得意でないことをみんな理解しているからか、たまに、英語の練習をしてくれることがあった。
こういう時はこう言うんだよ、これはこういう意味の単語だよ、という、仕事で使えそうなものをそれぞれが教えてくれた。

いろいろなスタッフと仲良くなったが、受付の女性だけは僕に話しかけてこなかった。
僕の履歴書を汚物扱いした女性だ。

受付とはあまり接点がないのだが、たまにロビーの掃除を任されることもあった。
その時は互いに何か喋るでもなく、ひたすら清掃するしかなかった。

嫌われてるのかな、とは思わなかった。
なんとなく、嫌われてるような雰囲気ではなかった。

ホテルで3ヶ月くらい働いてから、ようやく受付の女性と少しずつ会話ができるようになった。

彼女はドイツ人で、まだ20歳だった。
そして話してみてわかったのだが、超とびっきりの人見知りだった。

仕事でお客さんと会話するのは問題ないが、スタッフ同士で会話するのが苦手なようで、それがどう見ても人見知りにしか思えなかった。
そのせいで、僕が最初、履歴書を渡したときも、どう扱っていいのかわからずに親指と人差し指で摘むという結果になったらしい。

日本語でバイバイって何て言うの?
受付の彼女に聞かれた。
日本語でバイバイは「バイバイ」だよ。
そう説明すると、一緒じゃん、と残念そうだった。

だから「またね」がSee you again.の意味だよって教えると、じゃあ今度日本人のお客さんがチェックアウトするときに言ってみるね、と意気込んでいた。

でもいざ日本人のお客さんがチェックアウトする際になると、彼女はものすごくもじもじして「またね」と言えていなかった。
今だよ、言って!と伝えても、noと言って下を向いた。
驚異的な人見知りだった。

仕事の次は何する?

もうやるっきゃないでしょ。
人生初のスマホを手に入れて、仕事も順調なんだから、やることは一つでしょ。

マッチングアプリだ。

年頃の男子たるもの、青少年の育成に必要なのはマッチングしかない。
人生初のスマホで、人生初のマッチングアプリを開始することにした。

今ほどマッチングアプリが盛んではないが、当時もやっている人は多かった。
アプリをインストールして会員登録すると結構な数の出会いが散らばっていた。

英語の練習にもなるし、という謎の言い訳をしながら僕はマッチングアプリでメッセージを送りまくった。
やる気しか満ちていなかった。

なんかわからんけどHelloと送りまくった。
How about you?の省略形がU?なのを知った。
無視されまくったけどそんなの関係ない!と思って限界までメッセージを送りまくっていた。

何人かとはマッチした。
仕事で来たという人、旅行で訪れたという人、現地の人。
いろんな人がいた。

どこでどうしてそうなったのかわからないけれど、僕は日本語を勉強しているという現地の人と付き合うことになった。
まさかの展開だ。

相手は19歳のオーストラリア人。
その子には妹がいた。

僕の恋人は親日で、日本に留学をした経験もあるらしい。
言語を覚えるのがどれほど難しいのか肌で感じていた子なので、優しく英語を教えてくれた。

教科書には載っていない英語、生きた英語を教えてくれた。

でも、一番英語の勉強の励みになった原因は妹の方だ。

妹は結構気の強い子だった。
彼女に最初に言われたのは、
「日本と韓国って何が違うの?」
だった。

その問いに対して僕が答えられずにいると、
「英語は世界公用語で、ここは英語を母国語とする国オーストラリアなのに、どうしてあなたは英語ができないの?」
と思いっきり僕を馬鹿にしてきた。

悔しかった。

それから僕は、時間がある時はずっと英語の勉強をすることにした。
テレビに字幕をつけて、どんな内容を喋っているのか、どんな発音をするのか毎日チェックし続けた。

日本語で咄嗟に言葉が出てこなくなるくらいずっと英語で生活し続けた。
英語を耳に入れてそのまま英語で理解するよう心がけた。

それでもすぐに英語が上達するわけなく、言われたことの意味がわからない日々を送っていた。

この時に気づいたことだが、僕は耳がいいみたいだった。
耳がいい、というか、耳から入った音をそのまま口で発音することに長けていた。

まったく単語が聞き取れなくて、何を言っているのかさっぱりわからなくても、言われたことをそのままリピートして相手に問いかけると、Yes!とよく言われた。
意味がわからないからどういう意味なのかもう一度ゆっくり喋ってほしいだけなのに、僕がそのままの発音で繰り返すから、相手からしたら僕は理解していると思うらしい。

この口でそのまま発音する癖は今でも出来ていて、一切意味のわからない台湾語ですら相手の発音を真似て喋ると通じる。
台湾人が数人集まって喋っている中で、僕がそれぞれの言葉を真似て喋っていると、向こうは僕のことを台湾人だと思ってめちゃくちゃ喋りかけてきたりするのだが、そのときに僕がぽかんとしているとようやく理解していないと気づくレベルだ。

だから僕は発音だけはいい。
日本の学校で覚えるような学び方をせず、英語を耳で覚え、耳から入ったまま発音する、という道を辿ったおかげで、どれだけ早口で喋られても聞き取ることができる。

だから最終的には、その妹の、若者特有のありえないほど早口で、ありえないほど省略させた言い回しを単語毎に理解でき、そこに言い返すこともできるようになった。
当時は日本を馬鹿にしやがって!と怒ったりもしたが、結果的には妹のおかげで僕の英語力、というよりリスニング力は飛躍的に向上した。

褒められるよりも、貶されたからこそ、育ったものがある。

出会って別れて帰国して

1年なんてあっという間

言葉通り、右も左もわからない国に行き、単語ひとつ聞き取ることすらできない状況で大泣きし、罵倒され、馬鹿にされながらも、僕は一年間、オーストラリアで生活することができた。

いろいろ割愛するけれど、帰国間際、僕は恋人と別れた。
半年くらい付き合ったのかな、でも別れた。

いろんな涙を流した1年だった。
主に悔しい涙だったけど、こんなに泣いた年はないんじゃないかってくらいに泣き続けた生活だった。

結果だけを見ると、単身、ビザとお金だけ持ってオーストラリアへ行き、ゼロから一人でいろんなことをやり遂げたように見える。
けど、もう名前すら思い出せない人たちにたくさん助けてもらった。
僕が行くと毎回優しくしてくれたスーパーの店員さんとか、重い荷物を運んでいたときに声をかけてくれたおっちゃんとか。

生きてさえいればなんとかなる。

そこで出会った人とは15年経った今でも交流があったりする。
人の縁ってどこにあるかわからない。

日本語を忘れる

帰国して一番困ったのが日本語だった。
ずっと英語で考える癖をつけていたから、日本語がほとんど出てこなくなっていた。

あと僕の英語が完璧にオーストラリア英語になってしまっていたから、アメリカ英語の発音を学ぶ日本では僕の発音はおかしいと思われることにもなった。
日本でオーストラリア英語を聞く機会ってほぼないもんね。

帰国してから、僕は大学に復学して、まだ足りていない単位を取得しに行き、ゼミの担当教員に頭を下げて論文の提出を待ってもらい、卒業することができた。

就職活動も、言葉がまったく通じない国であれだけやれたんだから、100%言葉が理解できる母国で怖いものなんて何もなかった。
だってどれだけ小声で言われてもわかるんだよ、そんなの最強じゃん。

いろんな意味で強くなれたなって感じた。
ありがとう、ワーキングホリデー。

少し調べるとわかることだけど、ワーキングホリデーはだいたいの国で30歳まで受け入れる、という制限がある。
もう30代も半ばになっている僕を受け入れてくれる国はどこにもない。

もしどこかで、何かのきっかけでこの長々とした記事を読んでくれた若者がいたら、思い切って飛び出してみてほしい。

もちろん家庭環境とか、それぞれの個人で抱えている問題もあるだろうから、僕みたいに両親が健在で、わがままを許してもらえ、自由に時間を使える人ばかりではないと知っている。
でも、もしも少しでも可能性があるのであれば、20代のうちに、もっと馬鹿なことをやっておいてほしい。

ストレートに大学を卒業したら22歳だ。
22歳で学生が終わり、23歳の年からその後ずっと働くというのがほとんどの人の人生なのかもしれない。

30歳を過ぎた中年のおっさんからの要らぬお世話

僕は人生80年あると思っている。
そしてその80年を24時間で置き換えて考えることがある。

40歳で昼の12時だ。ちょっとした休憩時間に入る。

20歳だと朝の6時だ。起きてるか?

30歳だとようやく9時になる。仕事が始まる時間だ。

つまり30歳で仕事が始まる。
それまでは寝ているか通勤しているか朝活しているかだ。

飛躍した比喩かもしれないけど、30歳になるまでは遊んでていい。
30歳になったら、仕事をしろ。

22歳なんて、まだ起きてすらいない。
起きてもないのに、夢の中で仕事の悪夢にうなされるのだ。
そんなの嫌に決まってる。

僕の話で恐縮だが、僕は24歳で大学を卒業し、就職したが、その後、新卒で入社した会社は半年で辞め、第二新卒として入社した会社は1年半で辞めている。
そこから次、3社目は2年続いたが、結果として辞めている。

30歳になるまで堅実に生きていない。
もちろん会社で学ぶことは多かったけど、嫌になったらすぐ逃げた。
驚くほどの速さで逃げた。
逃げ足だけは早い。
逃げると逃げ癖がつくから良くないと言われるかもしれないが、逃げられるのであれば逃げろ、逃げるが勝ちなのだから。

30歳になろうとしたとき、僕はクリエイターの卵になっていた。
学校で一切手に職をつけるようなことを学んでいなかったが、紆余曲折し、30歳では手に職をつけ始めていた。

30歳になったタイミングで、その時点でやっている仕事をこのまま続けようと思った。
ここから先は働くしかないのだから。

そこからもいろんなことがあったけど、30歳のときにやっていた仕事で、そのまま今も仕事を続けることができている。
クリエイターの卵だった僕が、今はクリエイターを育てる立場になっている。

若者よ、もっと遊んでくれ。
若者よ、もっと学んでくれ。
若者よ、もっと真剣になってくれ。
若者よ、もっとSNSから離れろ。

なんかめちゃくちゃ長い文章になったな。。
こんなに書く予定じゃなかったんだけどな。。

どこの誰が読んでくれるかわからないけれど、生き急ぐ前に、ちょっと休んでいこうぜ。

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