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『私の身体を生きる』

女性はお淑やかで慎ましく、可憐で清楚だから性欲なんて一切持ち合わせていないと信じている男性がいる。
一定数いる。
僕の友人にもいる。
会話の中で、言葉の節々に、ちょっとした違和感を抱くくらいだけど、ほんとうにそう思い込んでいる男性は、いる。

男性は常に性欲にまみれていて、明けても暮れても獣のようにいやらしいことを考えていると信じている女性がいる。
一定数いる。
最近はよくSNSなんかで話題になるからピンとくるかもしれない。
そういう女性は、フェミニスト、という言葉で表されることが多い。

歴史的背景

フェミニストという言葉を一番最初に知ったのは、中学生の頃だった。
直木賞を受賞した唯川恵の『肩ごしの恋人』という小説の中に、その言葉は登場する。
「フェミニズムを叫ぶ女って、ブスばかりなのよね」
その言葉の意味を知らなかった当時の僕は、国語辞典でフェミニズムという言葉を引いた。

フェミニストという言葉を、今はよく目にするし耳にもする。
しかしこの言葉を使っている人の中で、フェミニズムの歴史から学んだことのある人はどれくらいいるだろう。

フェミニズムは、女性の権利獲得からはじまる。
今では考えられないけれど、当時の女性には参政権がなかった。
つまり、政治に参加できなかったのだ。
それはおかしいだろうと、女性にも権利を!という運動から、フェミニズムは始まった。
そして、フェミニズム運動から、女性学が誕生する。

そう、フェミニズムは学問にも通ずるのだ。
ただ単に、なんとなく女性の権利を主張しているのではなく、女性学という学問への通り道として、フェミニズムは存在する。

だから何?と思うかもしれない。
せやね、だからなんやねんって話やね。
けれど、フェミニズムを語るのであれば、歴史的背景や当時の思想を学ぶ必要はある。
自称フェミニストの書いた本ではなく、学者が論じた本を手に取ってみてほしい。
他者を理解しようとするには、歴史を学ぶことが大切だ。

今を生きる

『私の身体を生きる』は、17人の女性らによるリレー・エッセイになっている。
題材は【性】だ。
女性の性を題材にしてこういった本が出版されるのであれば、男性の性を題材にして出版されることはないのだろうか。
あまり売れる気はしないけど、価値はある気がするのだけど。
ねえ、文藝春秋さん。

人の身体というのは千差万別だ。
男性だから男性の悩みがわかるわけではない。
同じく、女性だから女性の悩みがわかるわけでもない。
そんなの当たり前でしょう、と思うかもしれないが、男性、女性、という括りで判断されて分けられていることは多い。

中学校の運動会で、男子は全員上半身裸にならなければならなかった。
それがすごく嫌だった。
男は裸になっても恥ずかしくないと、どうして決めつけられていたのか、まったくわからない。
そういうことを訴えると、男のくせに、と言われる。
その意味も、まったくわからない。
昔も今も、そしてこれから先もきっと、まったくわからない。

わからないことが悪なのではなく、わからないということに理解を示さない人が多数派ということが悪なのだと思う。
みんなもやってるから。
みんながやっていたら、僕もしなければならないのだろうか。
自分で考えて、嫌だと判断したことは、嫌だ。
ただそれだけなのに。

ランドセルの色が、男子は黒、女子は赤、という確定色でなくなったのは、とても良いことだ。
好きな色を選べるのは、自分を尊重されているような気がして、ちょっとだけ、自由になれる気がする。
僕が今、小学生に戻れるとしたならば、それでもきっと、黒を選ぶだろうけど。

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