辻村深月『傲慢と善良』
映画化されて話題になっているので読んだ。
よくもわるくも、辻村深月の作品だな、と思った。
マッチングアプリ
使っている人は多いと思う。
僕も一時期は使っていた。
諸事情で今はもう使ってない。
面白いよね、マッチングアプリって。
いろんな人に出会える。
別にこの人とこれからもずっとやりとりを続けて関係性を構築していくわけじゃないし、と思うと身近な人には言えないようなことも言えたりする。
距離が近いと本音が言えないのに、他人であればあるほど自分を曝け出せるのって、なんでだろ。
そういえば、「出会い系アプリ」という呼び方から、「マッチングアプリ」という呼び名に、いつから変化したんだろ。
僕が学生の頃は出会い系アプリって呼んでたはずなんだけど。
出会い系って言うといかがわしいいから、マッチングっていう呼び名に変化したのかな。
「できちゃった婚」が「授かり婚」になったみたいに?
本質を建前で隠すみたいに?
友人が結婚したとき、そいつが自信満々に「俺は今の奥さんと街中で偶然出会った。だからマッチングアプリみたいな、人前で言えないような出会い方をしていない」と言っていたのを思い出す。
マッチングアプリって、人前で言えないものなの?
結婚式の馴れ初め紹介で、堂々と流せないものなの?
こんなに普及してるのに?
幸せの形って、他人からどう判断されるのかで形成されるものだよなって、つくづく感じる。
「奥さんと出会ったのは共通の友人からの紹介です」の方が、「奥さんと出会ったきっかけはマッチングアプリです」よりも、他人から羨望されるという思考のもと、そういう言い方をしたんだろうな。
自分の幸せの価値観なのに、他人のものさしでしか測れないのが、SNSが普及しまくった今の世の中なんです。
自分の中で確固たる幸せの形を見つけたいものです。
お見合い
僕はお見合いというものをしたことがないけれど、大学時代の友人はしたことがあるらしい。
そのことを、この小説を読みながら思い出していた。
そいつの家は、まあ、名家と呼んでもいいくらいの、結構由緒正しいお家柄で、両親が話を進めて、見合い相手を決めて、この物語にあるような、ほんとうにそのままの流れで、お見合いをしたらしい。
だから、この小説の中にあるお見合い風景は、結構リアル。
恋愛して、相手を好きになってから、結婚することが、今の時代は普通と呼ばれるようになっている。
けど、少し前までは、結婚してから、相手のことを知って、好きになっていくのが普通だった。
じゃあ、これから50年先は、どんな結婚の形が普通になっていくんだろう。
50年先か、生きてるかな、生きてたらいいな、生きてその時代の結婚市場を垣間見たいな。
結婚して、子どもを産んで、子孫繁栄、子々孫々。
生産性のある人間なら、そうするはずだと、声高々に叫ぶ人がいる。
大前提として、人間は滅んではいけない、という思想の中で、叫んでいる。
晩婚化とか、少子化とか、そういうのが悪だという、なんとなくいけないことなんだと思わせる雰囲気があるから、同性婚はできないし、夫婦別姓もできない。
そして、幸せの形として、結婚、というものが、数多くの作品で描かれている。
どこで見たのか聞いたのか忘れたけれど、高明な学者の先生が、「人類が滅んではいけないなんて、誰が決めたんですか」というような発言をしていたのを覚えている。
その言葉に、どれだけの人が救われただろう。
結婚していなくて、子孫を繁栄させることができない人は、人間として失格だと、そういうメッセージが、今の世の中、そこかしこに散りばめられている。
大阪の地下鉄に乗ってごらんなさい、結婚相談所の広告だらけですよ。
男と女が出会って結婚して子孫繁栄するのが当たり前でしょうというメッセージだらけですよ。
そうできない人のことなんて、視界に入らないみたいに。
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