違う、そうじゃない
Twitter(現:X)を眺めていると、こういう言い方があったのか!とか、
なんでこんな言い回しが出来るのだろうか?と感心することがある。
引き出しの数が違うのか、引き出しの中身が違うのか…。
しかも開け閉めが速い。摩擦係数が0に近い高品質の引き出しだ。
あとになって、あれはこういう言い方が正しいかな?
本心に近いのはこの言葉かな?と感じることが増えてきた。
言葉を紡ぐ際に開ける引き出し。どうにも滑りが悪いように思える。
※中身の問題は一旦置いといて。
つい最近も「あれは違ったなぁ」という言葉があった。ひと月前の会食で「どうしてフリーランスになったんですか?」と聞かれ時だった。
百人一首のごとく反射的に答えられる質問は、一番開ける引き出しに入っている。が、この日はお酒が入ったからか、たらふくお肉を食べて血液が内臓に集中していたからか、調子に乗ったのか、開けなくても良い引き出しから、こう放ってしまった。
「承 認 欲 求 の た め で す ね ! 」
違う違う、そうじゃ、そうじゃないんだ。
「自己肯定感」と言いたかったんだ(これも若干違うような…)。
捉え方によってはまぁ通じる部分はあるかもしれないが、何というかだ…、「チョー傲慢」だ。恥ずかしい。お酒のせいにしたいくらいだが、酔った時には人の本性が出るともいうし、本能を解き放ってしまったのだろうか。
これは失言も失言だ。
ちなみにいつもなら、
「時間の使い方を自分の責任で判断をするため」と答えています。
これは、嘘じゃ、嘘じゃない。
開けるべき引き出しの滑りが悪くてとっさに選んでしまった、ならまだしも、よりにもよって開けたらゴミが入っていた。イキった言葉。
使わなくなるととたんに滑りが悪くなり固くなる。思考も固着する。
引き出しの滑りをよくするために、中身を忘れないために。
言葉を紡ぐ練習のために、noteを始めることにしたのである。