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「準備」という「本気」。

今年の1月に、やるべき目標として「書評を書く」を掲げた。
書評を通じてのコミュニケーションに憧れがあったのか、
あるいは、感想で酌み交わす楽しそうな光景を遠目に見て、
仲間に入れてほしかったのか。

ハッキリ言えばどちらも正直な感情であるが、
じゃあそのために具体的な準備をしてきたのか。
振り返ると沈黙する。

沈黙が金を生まないまま、季節が夏を迎えた頃、
敬愛する、ひろのぶと株式会社より1冊の本が出版された。

【伝えるための準備学】 著者:古舘伊知郎 である。

絶好のタイミングと直感―。
丁度、大阪への用事と重なっていたのだが、
その往復時間が体感リニア新幹線の様に感じられる程読み応えがあった。
そしてその勢いそのままに書き上げようと意気込んだのだが、
ここからがえらく長い。新幹線こだまの静岡県区間の様に長い。
むしろ、工事は頓挫しかかった。

出だしこそ勢いにのるものの、次第に手が止まる。
読み返しては付け足し、消しては打ち込み直す。段々消す量が多くなる。
読んだ「感動のへそ」に従えば、書けると思っていたが、
ただ闇雲に指先を動かしての言葉ガチャに賭けているだけだった。

何も進まないまま10月。
やる気の火が種火ほどまで弱りかけた頃、一陣の風が吹く。
「ひろのぶと杯」の開催だ。

この機会を逃すと、もう今年は書評を書けないとさえ思えていた。
納期11月8日だ。腹をくくった。どう詠いあげていくか。

白くまぶしいnoteの画面に目が眩みそうにりながらも、
文字を打ち込んでいく。
目指す先が見えたとて、そう簡単には事は進まない。
そりゃそうだ、自身の感情に向き合い、
それを文章にする行為なんてまともしてこなかったわけだから。

何か指標が必要ではないか。
出版後に公開された他の読者の書評を思い出す。
が、悪い癖も顔を出す。

悪い癖といってもカンニングや盗作の類ではない、逃げ癖だ。

誰かの書評を見て、
「そうそう、同じことを言いたかったんだ。
だから、自分があらためて言わなくていいんじゃないか」
どうせ似るのなら、誰かが代弁してくれているのなら、
回答を辞退する。
準備を徹底するあまり、己を引っ込めてしまう。

石橋を叩いてなお渡らない。どうぞあなたが渡ってください。
ここまでくると、準備の奴隷LV99カンスト状態だ。
もう止めてしまおうか。目標としてはいたが、
ひとのぶと杯に提出します! とは公言していない。

書評を進めるにあたり、手持ちの文章術に関する本を再読した。
それなりに準備をしたつもりだが、いざ試みるとちっとも進まない。
準備が足りないのかと思い、本書もさらに再読をする。

書きたいことがないのか?
学びを得ていないのか?
感動していないのか?

何週目の準備なのか分からない、何度、奴隷状態を繰り返すのか。
一体、何が足りないのか?
すがる思いでページをめくる。

だから、できるだけ用意をしたら、今度は用意したものを削っていく。
〔中略〕さんざん用意・準備するからこそ、捨てるという選択肢が生まれる。

『伝えるための準備学』 P83

なんで気がつかなかったのだろうか?
自分の状態を認識出来ているのなら、逆に準備完了だ。
それらを捨てればいい。

読みやすいように3~4行ごとにブロックを区切るだの、
スマホで読みやすい様に一行の文字数を考えるだの、
章立てるだの、目次をつけるだの、一切合切関係ない。
なにもかも捨てて、一旦書き上げよう。

書評を進めるということに囚われすぎた。
その準備に囚われすぎた。
発表したその先のことに囚われすぎた。
ここでホームランを打たないと試合終了という状況ではない。
勝手にワールドシリーズの状態を作り上げているが、
どんなに良く見積もってもせいぜい秋季キャンプの打撃練習。
一振り一振りが来シーズンの糧になることには違いないが、
早やく打席に立てよ、と突っ込まれる。
立ってバット振れ。
先のことは、それから考えろ。

本書から学べることは本当に多くある。
本書から得られる感動は本当に多くある。

私が古舘伊知郎氏をTVで認識をしたのは上京したての20数年前。
深夜のバラエティ番組だった。
地元北海道ではとうに停波している時間帯でも、
面白い番組がずーっと放送されている。朝までずーっと放送している。
東京、凄い街(日本の首都)!と物凄く感動した。

そんな凄い東京に来さえすれば何者かになれるだろう思っていた。

時を経て、『伝えるための準備学』通じ古舘伊知郎氏と邂逅する。
今なお本気で準備に取り組み、バリバリ面白い喋りに衝撃を受ける。
(勿論、その間のキャリアの変遷・活躍を知らないわけではない)

最初に目にした頃から本気で物事に取り組んでいれば今頃は…。
流れていった時間の多さに血の気が引いていく。

否―。
これは壮大な準備だったのだ。
最初に古舘伊知郎氏を見た時に立ったフラグだ。
今、そのフラグを回収した。

いつ役立つともわからない、アウトプット先が定まっていない準備。準備を樽に詰めてウイスキーの様に寝かせておく。ずーっと寝かせ続けるのだ。
そして、忘れた頃にフワッとにじみ出てくるのだ。

『伝えるための準備学』 P171


本書は準備にまつわる本であるが、
古舘伊知郎氏の「本気」を記録した本と解釈した。
読んだからには、こちらも本気で応えなくてはならない。

長々と自分語りしてしまったが、今出せる本気の結果がこれだ。
これが失敗なのか成功なのかはもう関係ない。
書いたあとの未来に生きる選択をし、その準備に本気になった。

無数の傷をつけることなくして、自分は磨かれないだろう。傷つけられることを恐れていては、成長することもないだろう。

『伝えるための準備学』 P50

本気になれば、凡人の私にでも書ける。
そのことを自らに向けて刻んだ「向こう傷」だ。





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