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#私の履歴書

#私の履歴書

はじめまして。
つい最近まで、自動車次世代分野のど真ん中のIT企業で働いていました。
節目で時間ができたタイミングで西尾に声をかけてもらったので、この企画に参加することにしました。
実名で記事を書くのは緊張しますが、男性のキャリアについて男子校出身者が思うところをいろんな角度から語っていくコンセプトらしく、僕自身読みたくて仕方がないので、楽しみながらやっていきます。

初回は自己紹介。
よく、正体がわからないと言われがちなので、振り返りも含めて生い立ちを書いてみます。

■にメインエピソード、◇にサブエピソードを書くので、ささっと読みたい方は、■だけを読むことをおすすめします。

■ど田舎期
僕の人生はど田舎から始まりました。

トマト畑で大量のカブトムシを獲って自然に感謝したり、
雨でもないのに傘を持ち歩き、襲ってくる凶暴な野良犬と縄張りを争い、自然と闘ったりしていました。

電車の乗り方はわからないけど、ガタガタの回転するジャングルジムの乗り方はわかる。
服の選び方はわからないけど、捕まえやすいセミの選び方はわかる。そんなやつでした。

小さい頃の3大トラウマは、
・ザリガニの水槽に水を入れすぎて次の日全匹浮いていたこと
・カブトムシにゼリーを食わせすぎて次の日全匹ひっくり返っていたこと
・トンボを長い紐で繋いで、餌を獲らせながら飼おうとしたら次の日胴体がちぎれていたこと
こんな思い出しかありません。

◇サブエピ:ユニークファミリー期
僕の家族は少しユニークで、醤油ラーメンにバナナを入れて食べたり、「気分転換に改名した」と言って突然親の名前が変わったりする家庭でした。
呼び方はお父さん、お母さんだったので何の不便もないし、僕は普通の味噌ラーメンが好きだったのであまり影響は受けていませんでしたが、環境が環境だったため、普通とは違うふつうの中で生活できたのは楽しかったです。

今でも覚えているのが、ある日「食卓テーブルが低い」と言ったら、親が木材を4本買ってきて、長さも測らずにボンドでテーブルの足に付けるという斬新な改造をおこない、結果的にガタガタでしかも今度は高すぎる食卓が出来上がり、半年間くらい飯をこぼしまくりながら食べるハメになったことがありました。

こんなことが日常茶飯事で、しかも家族だけではなく親戚にも、一度失踪して戸籍がない人や、人を妖怪に例えて嫌われてしまう人など、なんだかよくわからないファンキーな人がたくさんいました。

■湘南期
中高時代は心機一転、湘南で過ごし、ちょっとだけシティボーイに近づきました。

ただ、学校が遠くて早起きしなければならず、朝弱かった僕は、このころ勉強も運動も恋愛もせず、ひたすら寝ていました。

元々好奇心は強く、覚えたり解いたりすることが好きで、簡単な授業なら聞くだけで理解できたので、中学生になるまでほとんどノートを取ったことすら無かったのですが、さすがに寝ていると授業が聞けないので、成績は見る見る落ちていき、下位10%から上になったことがないくらい酷いものでした。

けっこう鮮明に覚えているのは、300人いる学年で、留年しそうな15人くらいが教室に集められ、「お前らこのままじゃ本当にやばいぞ」と宣告されたことです。
僕の高校は当時10段階評価で1を取ると留年で、100点満点で15点以下が1なので、「とにかく16点を取れ」という衝撃的な意識低すぎるアドバイスを先生からもらい、みんなで16点目指そうという最底辺のモチベーションで試験に臨み、テスト範囲の序盤だけ勉強して18点くらいを取るようなスレスレのスクールライフを過ごしていました。

当時KAT-TUNの「REAL FACE」やB’zの「ギリギリChop」の歌詞にどえらい共感したのを覚えています。
ある意味ギリギリでいつも生きていましたし、ギリギリじゃないと僕ダメなんだよって感じでした。

そんな感じでゆるゆるに過ごし、高2までの5年間で30分くらいしか勉強していなかったため、模試の偏差値は38くらいでした。

◇サブエピ:文化祭
勉強以外で覚えているのは文化祭でしょうか。えんにちをやっているクラスにいて、当初はラクそうだと思い、くじ引きコーナーを担当していました。

しかし実際にメンバーを募ったところ、驚くほど個性的な友人が集まり、「あおぎくじ」という、くじをでかいうちわで扇いで飛ばし、箱から飛ばして出てきた分のくじを引くという、今考えると結構斬新で、よく実現したなと思う企画を立ち上げていました。

アイデアって人を動かす力があるし、チームで何かを作るのって楽しいな~と思ったきっかけでした。

■海外期
当時は本当にやりたいことがなく、大学にも行くつもりが無かったのですが、少子高齢化で入試の倍率が下がったことと、塗ったマークがたまたま当たったことが影響したのか、思っていたより世間体の良い大学に合格したので、そのまま進学しました。今思うと、本当に酷い話ですね。

学部はたまたま日程上法学部に応募していたので、法律を勉強することになりました。
法律は肌に合っていたのか、あっと言う間に単位を取り終わりました。

そんな中、転機が訪れました。
それは大学のゼミで、国際契約法M&Aを履修したことでした。

当時のゼミの講師は、現役の国際弁護士で、日本のODAでミャンマーに証券取引所を立てるプロジェクトに参画するなど、なかなかすごい方だったのですが、その方が、僕が初めて接した学校という世界の外のビジネスマンでした。

日本という国がどれだけ世界から注目されなくなっているか、世界的にM&Aがピークで盛り上がっている(当時2013年)のに、それを知らない人がどれだけいるのか、危機感という言葉だけでは括れないほど、日本人の意識の低さに警鐘を鳴らしていました。

ほとんど勉強したことがなかった僕は、なんとなく日本に居れば、年功序列で大したことをしなくても一生安泰で暮らせると本気で思っていました。

しかしその弁護士の方に出会って以来、もしかして今日本ってピンチなの・・・?という疑念を持ち始め、また同時に海外や自分の知らない世界について、猛烈に興味を持ち始めました。

幸いにもその頃には暇すぎてバイトしかしておらず、お金が貯まっていたので、そのお金をすべて使い、実際に海外を見に行くことにしました。
GoogleMAPのストリートビューで世界各地の散歩をシミュレーションし、行ってみたいと思ったのが地中海沿いのヨーロッパだったので、まずはスペインにいき、西洋を周遊しました。

宿も取らず、移動費も調べず、完全に勢いだけで行ってしまい、切符は買えない、泊まるところが見つからない、迷子になって半日歩き続けるなどいろいろありましたが、この海外旅行が、私にとって非常に印象的なものになりました。

スペインという国は当時4人に1人が無職で、日本だったら大騒ぎになるくらい経済がピンチだったのですが、そんなことが嘘のように街中の人は皆強烈に明るく、仕事もお金もないのに海に遊びにいっていました。
なぜそんな状況で遊びに行くのかとスペイン人に聞くと、「夏だから」と答えるらしく、まるで価値観の違う世界に、驚くばかりでした。
新橋や丸の内では、高給を貰い豊かな生活をしているはずの人たちが、カバンが当たったかどうかで怒号を浴びせあっているのに、別の国ではその日暮らしのように遊びながら働いている人たちがこんなに楽しそうに暮らしている。
なんて素敵な国なんだ、と思うと同時に、今まで暮らしてきた日本という場所が、ものすごく狭い世界に見えたのでした。

◇サブエピ:クリエイティブ期
学生のころ、たまたま乗っていた電車で、山口広輝さんの「君が本当に探したいものは、百万年前の地球にあったりする。」という群馬県の博物館のキャッチコピーを目にしました。(※山口さんはJR SKISKIの”ぜんぶ、雪のせいだ。”キャンペーンで有名)

これがどうしてか当時の僕にぶっ刺さり、キャッチコピーにどっぷりとハマっていた時期がありました。様々なコピー関連の本を読み漁り、自分自身も宣伝会議賞という全国的なコンテストに1,000本程度のコピーを書いて応募していました。

また、広告代理店のインターンシップにもコピーライターコースで参加させていただき、言葉にこだわる人たち、表現に才能を持つ人たちの独特のオーラを目の当たりにしました。

この頃言葉の表現についてこだわって調べていたことが、社会人になってから報告書や資料のわかりやすさで評価を得ていくことに繋がっていますし、「自分が素敵だと思ったものを、人に伝える力が欲しい」という価値観の形成にもつながりました。

■名古屋期
そんなこんなで、いつか海外で働きたいという気持ちは残しつつも、まずは社会人・人として基礎基本を身に着けようと思い、OBと話して社風が合いそうだと思った印刷会社に就職しました。

オシャレビジネスマンを代表する港区で就職したはずが、最初の配属は名古屋。”中部事業部”と聞いた時、そんな地方があるなんて知らなかったので、てっきり東京の真ん中らへんを担当するのかと思っていました。笑

恐る恐る名古屋に足を運び、知り合いも同期も誰一人いない場所で、いきなり日本最大の自動車メーカーを担当することになりました。

知識も礼儀も常識も圧倒的に不足していた僕に対し、クライアントの要求は日本最高水準。お客様に、もう来るなと何度も言われながらも、もがき倒してなんとか事業部で営業成績No.1までなりました。

周囲の人たちの支え、元々の好奇心が原動力となり、なんとか社会人として基礎的なことを身に付けることができ、お客様やスタッフからも少しずつ感謝されるようになってきました。

そのへんのことはWantedlyのストーリーに詳しく書いています。(後ほどリンク貼ります)

そして3年目の秋。何かが評価されたのか、異例の人事、クライアントへの出向を言い渡され、またもや知り合い0からのハードミッション開始。しかも仕事は事業戦略企画・プロジェクトリーディング。部署では最年少でしたし、全く未知の分野、未経験の職種、見知らぬ他社の人間関係の中で、常にハイプレッシャーな仕事環境でした。

混沌とした市場で、本当にうまくいかないことだらけで、苦しい日が続きましたが、この年齢でこれだけのことをやらせていただけたことを、今となっては感謝しています。
そして最終的には、ハードな環境で予想外なことが連続しても、やり切るくらいには成長していました。

無事役目を果たし、ありがたいお言葉もたくさんいただきながら、ミッションを終えました。
そして3年半の社会人生活を過ごし、この国を支える製造業がこれから目指すところと、それを達成する上での様々な課題も見えてきました。

そして今、この経験を活かした次のミッションを、今度は与えられた環境ではなく、自分で模索しようと思い、お世話になった会社を退職し、僕はこの記事を書いています。

◇サブエピ:就活支援期
名古屋にいる時、空いている時間でVISITS OBというサービスを使って、学生の就職活動を支援していました。

これは、社会人が知っている社会と、学生が知っている社会にあまりにも情報非対称性があり、せめて一生懸命もがいている人たちにはもっと知る機会、チャンスを作れないかと思って始めました。

実際やっていて、何人かの学生の役には立てたかと思いますが、同時に思ったことが、20代が見えている社会と、これよりも上の世代の人や経営層、意識も実力も高い層では、またさらに情報格差や行動格差があるのではないかということでした。

この企画に参加しようと思ったきっかけでもありますが、僕らイマドキ世代の男性が、ありのままの考えを発信することで、同世代がこういう考えもあったのかと発見してくれることと、上の世代の方々に、もっとこうした方が良いという指摘や助言をいただく機会にもなれば良いなと思っています。

ずいぶん長くなりましたが、きっと、どんなタイミングで知り合った人にも、変わったねと言われるような、変化の人生だと思います。もしかしたら来年の僕は全く違うことを全く違った楽しみ方でやっているかもしれません。これからも楽しみつつ頑張っていきます!

来週から毎週金曜日に更新していきますので、どうぞよろしくお願い致します。

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