長北真枝

2021年1月、家族感染からコロナに罹り、その時の症状は軽かったものの、45年前に亡くなった母が迎えに来たことが、あまりにもリアルすぎて、このまま死ぬのではないかと感じました。 過去の私と関わった方々へ恩返しがしたくて、先ずは今までの道のりを、書いてみようと思いました。

長北真枝

2021年1月、家族感染からコロナに罹り、その時の症状は軽かったものの、45年前に亡くなった母が迎えに来たことが、あまりにもリアルすぎて、このまま死ぬのではないかと感じました。 過去の私と関わった方々へ恩返しがしたくて、先ずは今までの道のりを、書いてみようと思いました。

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1.私が生まれてからのこと

私のこと  最近、自分を振り返る事が多くなってきた。 私が生きてきた歴史の中で、お世話になった人たちや助けてくださった方々、迷惑をかけちゃった人達に、今恩返ししないでいつするの⁇…という思いが強くなってきた。 それは直接本人に返せなくても、今までしてもらったのと同じことを、誰かにすればいい。 今一度、今までの過去を振り返りたくて、このno+tに書いていくことにした。 書きながら、驚くくらいに次々と思い出してくる。 この記憶力が勉強に生かされていたら…違う人生を歩んでいたかもし

    • 65.母の秘密

       私は、自分の過去の振り返りを行うことで、たくさんの方々に感謝と恩返しができるキッカケになるのではないかと、このnoteを始めました。 でも、母のこと、母が亡くなった後のことなどを書いているうちに、色々なことが蘇り苦しくなりました。 気持ちの整理をする時間が必要になり、note更新が遅くなりました。 このnoteを読んでくださった方々に感謝しています。 自分のことばかりしか書いていない “note” なのに、読んでくださる方がいることに感謝です。 ありがとうございます。

      • 64.神様へのお願い事

         私は、自分の部屋で泣いた。 いっぱいいっぱい泣いて、この部屋を出る時は笑っていなきゃ…って。 泣きたくなると部屋へこもった。 わたしもそばに行きたい ママに会いたい 話がしたい どうしたら、ママのところに行ける? ママはどんなにか痛かったことだろう 今はもう痛くないの? 骨がボロボロでただでさえ痛いのに、硬いコルセットの上に寝かされていた母は、どんなに辛かったか、想像がつかない。 お葬式は自宅で行なわれた。 お通夜の後は、一晩中、お線香を絶やさないように代わりばん

        • 63.おにぎりと赤いスカート

           Mお姉ちゃんと家に帰ると、父が言った。 「ママは死んだよ。」 部屋入ると布団が敷かれ、母が寝ていた。 母の頬に触ると、今まで感じたことのない異様な冷たさに驚いた。 それ以上、私は母にさわれなかった。 ただひたすら寝ている母の傍に座っていた。 悲しいとか悔しいとか、感情が何もない。 ただただ何の感情もないまま、母を見つめながら座っていた。 ママ、もう痛くない? 心の中で話しかけた。 静かなこの時間を、もう少しこのまま… その様子を見ていたKおばさんが、 「お母さんの

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        1.私が生まれてからのこと

          62.母との別れ

           母が入院して10日目のこと。  その日は朝からどんよりと曇った空だった。 今にも雨が降りそうな空。 ねぇ、Kおばちゃん、 わたし、今日学校お休みしたいの。 一日ママのところにいたい。 私はKおばさんにお願いした。 「まさえちゃんは学校に行きなさい。 何かあったら学校に電話してあげるから。」 それでも、私は何度も何度もお願いをした。 今日一日だけでいいから、ママのところにいたいの 今日だけ。 明日からはちゃんと学校に行くから。 お願い!! Kおばさんは、何度お願

          62.母との別れ

          61. 3人のおばさま

           父から母の入院を聞き、親戚のおばさま方が3人、家に来た。 二人は母の妹HおばさんとKおばさん。もう一人は義姉のSおばさん。 Sおばさんの息子と、Kおばさんの長男と次女は、東京の大学に通うため、我が家に下宿していた。 母の故郷は福島。 本家の横には蚕の織物工場があった。 私が物心ついた時には、工場は閉めていたので赤い屋根の建物だけ残っていた。 私は小学低学年までは、夏休みの間中、福島で過ごした。 Sおばさんはどちらかと言えば厳しい人。 いつも顔色を伺いながら行動していた

          61. 3人のおばさま

          60.母の言葉

           私は、母の病状を何も聞かされておらず、しかも無知、プラス能天気な私は、母が家に帰れるものだと信じて疑わなかった。 父に聞いても 「ママは病気が良くなったら家に帰れるよ。」 と言うので、病院の先生がママの病気を治してくれると、ずっと信じていた。 私は学校が終わると、そのまま病院へ行き、消灯まで学校の宿題をやったりして母と一緒に過ごした。 私は学校での出来事を話す。 母は何も話さないけれど、穏やかな顔でうなづいてくれる。 入院するまでのことを考えると、母と過ごせる時間は静かで

          60.母の言葉

          59.母の入院

           救急車が病院へ着くと、母はそのままレントゲン室に運ばれた。 父と私は廊下の椅子で待っていた。 レントゲン室から、母の悲鳴が聞こえてきた。 レントゲンを撮るために、あの硬い台の上で、体の角度を変えたりされていたのだと思う。 私は、胸のレントゲンしか経験がなかったので、当時は中で何をされているのか分からず、不安で待っていた。 暫くして父が呼ばれた。 ひとりで待っている時間がとても長く感じられた。 母の悲鳴が聞こえなくなり、ホッとしていると、ストレッチャーに乗せられた母がレ

          59.母の入院

          58.何もできない自分

           いつの頃からだったか… 私が13歳の誕生日を迎えた頃だったかな。 母が腰の痛みを訴えるようになった。 頻回に腰に手を当てている。 母は近くの内科医院に受診した。 今は 〇〇科クリニックとか、たくさんあってどこにかかればいいのか迷うくらいだけれど、その当時は主に内科医院が周りには多く、小児科とか整形外科とか、希望の科に行くのであれば総合病院に行く、でも大きな病院は時間がかかるから、とりあえず近くの内科に行ってみる…という人が多かったように思う。 だから私も、小さい頃から、小

          58.何もできない自分

          57.ちょっと思春期

           中学2年生になり、UちゃんとSさんに 「ねぇ、一緒にテニス部に入らない?」 と、誘われた。 部活って、3年間変えちゃいけないんじゃないの? 「大丈夫よ! 何か理由つけてさ、お願いすれば変えられるよ。」 そうなの⁇ じゃあ、わたしもテニス部に入る!! 元々テニス部に入りたかったから、嬉しいお誘いだった。 体操部の顧問とテニス部の顧問に書類を提出し(両方ともイニシャルはK)、2年生の4月からテニス部に加わった。 母にラケットと白いウェアを買ってもらって、楽しいテニスの

          57.ちょっと思春期

          56.運動は好きじゃない

           学校の近くには遊園地があり、部活のない日曜日など、友達同士で遊びに行ったり、豊島園のプールにもよく行っていた。 私は小学生の頃から、友達の家に遊びに行く時も、友達同士で出かける時も、いつもバスや電車。 学校が家の近所ではないから、必然的にそうなるわけだけど… それを考えると… 我が子ども達の小学生の頃は、近くの公立小学校に通っていたし、普段電車に乗り慣れていない。 友達同士で近くのプールに行くのも、心配で仕方なかった。 ケータイのある時代、まぁ迷子になっても友達のケータイ

          56.運動は好きじゃない

          55.親の思い

           中1の夏休み、Sちゃんに旅行のお誘いを受けた。 Sちゃんのお父さんの会社が持っている社員別荘(おそらく)が軽井沢にあり、夏休みの最後に誘われた。 母に話すと 「軽井沢で過ごせるなんていいわねぇ。 是非連れて行ってもらいなさい。」 と快諾してくれた。 夏休みの宿題を終わらせて、その日を待ち望んだ。 出発当日は、学校近くのSちゃんの家に行き、Sちゃんのお父さんの車で軽井沢に向かった。 軽井沢に着いてからは、友達4人で過ごす。 Sちゃん、Hちゃん、Kちゃん、私の4人。 真夏

          55.親の思い

          54. Iちゃんの優しさ

           「ねぇねぇ、そめや〜 私ね、そめやが乗る電車に私も乗って学校通うことになったの。 引っ越しするんだ。 一緒に学校来ようよ。 待ち合わせしてさ。」 そう話しかけてきたIちゃん。 あまり話したことはなかったけど、ひとクラスしかない、人数もそう多くない学年。 Iちゃんは、その当時のアイドル歌手と同じ苗字で、そのアイドルの名前を取って彼女のニックネームになった。 だから、本名のイニシャルはYちゃんになる。 でも、同じ漢字の名前の子がもう一人いるから…というのもあり、彼女はIちゃ

          54. Iちゃんの優しさ

          53.母の教育方針 2

             母は行事を大切にする人で、お正月とお雛祭りは着物を着せられた。 寒い時期に、冷たい着物を着るのが嫌だったな。 1月の私の誕生日は、鏡開きに重なるので、鏡餅がご飯代わりとなり、夕食のあとケーキでお祝いをしてくれる。 クリスマスと誕生日、そしてお雛祭りはデコレーションケーキを買ってお祝い。 今のような生クリームの美味しいケーキではなく、バタークリームのケーキだったので、私はとても苦手だった。 節分は、豆まきをした後に食べる豆の数は年の数。 豆好きの私はナイショで食べてい

          53.母の教育方針 2

          52.母の教育方針

           母は相変わらず、厳しい人。 「勉強だけしていればいいから。 家の手伝いなんて、あなたはしなくていい。」 それが口癖のような感じ。 とにかく本を読まされた。 母は沢山本を買ってくる。 本といえば… 幼稚園の頃、『いやいやえん』という本を読まされて、正直、字を覚えるのが苦痛すぎて、本まで読まされるのが嫌だった。 右手で鉛筆を持たなければいけないのに、 どっちだっけ⁇ と、左手で鉛筆を持ち、字の練習をしていることも多々あり、よく手を叩かれた。 「あなたの字は汚い。 汚い

          52.母の教育方針

          51.校則

           中学校の校則は厳しかった。 定期的に行われる服装・頭髪・持ち物検査。 講堂に全校生徒が集められる。 スカートは膝下5cm。 先生方は常に定規を持っている。 中学一年生は、大抵の生徒は大きめの制服を着ているので、ある程度は目をつぶってもらえる。 私も、スカートの長さは膝下10cmくらいあったが、担当の先生に 「これから大きくなるものね。」 と、言われて免除された。 ソックスの長さは決まっていて、色は白、三つ折りにしないといけない。 長いままだと注意を受ける。 ストッキング