この方が,近くに住んでいる人だったら…
たまたま立ち寄った建物で 犯罪被害者等支援を考える縦断パネル展 というノボリの元 被害者遺族になるということ〜子を失した母の思い〜という文章に出会いました。
あの悪夢から 6年経ちました。
当然,あれから全てのことが変わってしまいました。唯一の心の支えである子供と共に 3人でこれから幸せになるために 一生懸命に生きてきました。
子供達がいてくれるだけで,本当に幸せでした。
あの日が来るまでは…
あの日,娘は友達と家で遊ぶ約束をしていました。私がお昼休みで帰宅した時は
「遊びに行くから,友達3人と車で送ってね!」と
めっちゃ笑顔で。
私は「分かったよ。待ってなさいね。」
これが最後の母娘の会話になるなんて思えないくらい日常の会話でした。あの日,1人の友達を
駅まで迎えに行く途中の事故でした。無惨な姿のまま即死。
お通夜当日,私は涙が出ませんでした。ただ
お経と重なって聞こえてくる娘の友達の泣き声や叫び声…倒れた友達が 何人かいたことが心配でした。まだ,16.17歳の何をしても 何を聞いても
楽しくて仕方ない年頃なのに 一瞬のたった1人の死で 大勢の友達の記憶の中に 一生の傷をつけてしまったこと…何もしてあげる事が出来ない自分に腹が立ち,今でも自責の念が残っています。
そして何よりも大切な娘を守ってあげることが,出来なかったことが,私は一生謝り続け背負っていかなければならないことだと思います。
しかし 私には長男が生きています。
あれから長男は 娘のことを話さなくなりました。それは 私が 娘の無念と思いで 裁判などを 一人で戦ってきたことを見てきたからです。
いつしか長男は 私と一緒に住むことが,苦痛になり,私から離れて行きました。そうです。今はバラバラです。家の中は誰の声もしません。
あんなに笑い声があり,騒がしい毎日が 暗闇の中に葬られてしまいました。
そして 沢山の他人に辛い言葉が投げつけられました。「よく生きているな。俺なら死んだかもな。」「あれ 生きてたん。」「たくさんお金が入ったでしょう。」「笑えるんだね。」…平気な訳がありません。しかし これで終わらず 傷に塩を塗るかのように私と娘に誹謗中傷が 集中しました。その上,あの事故現場が 心霊スポットのように扱われていました。
インターネットの書き込みや 直接私に言いにくることも。私は,何度も 真夜中に現場に行きました。何時間も祈りました。嘘であることを信じて,でも 今も どこかで言われているかもしれません。
私は 心身共に疲れ果て 思い出がたくさん詰まったアパートを出て行くことを 余儀なくされました。人間不振になり 仕事も行けず,家の中に閉じこもる日が続きました。親族との意思の疎通も 上手くいかず 実家に帰ることができなくなりました。当たり前だった生活が,ここまで変わるとは想像もしていませんでした。たくさんのものを失いました。
でも,こんな毎日でも 娘の携帯電話に 友達からメールが届き その時は少しの光を見ることができました。まだ 現実を受け止められない涙のメールでした。
「帰ってきて」「返信待ってるよ」「嘘だよね」…最初は 読むのが辛く涙しか出てきませんでしたが,次第に➖この子達が,前を向いて生きるように伝えて行かなきゃ➖と 思うようになり 思い切って返信してみました。
今では,何とか喜びや楽しかったことへの報告に変わりましたが,それでも,思い出すと 涙が溢れることもあり,子供達の傷を癒すことが出来ない自分をもどかしく思います。
私は,今 新潟被害者支援センターでお世話になり 居場所を探しています。これ以上 被害者が悲しむことのない世の中であってほしいと願い 今後も活動をしたいと思っています。
この方は,この文章を書くことは 辛い作業だったと思います。しかし,娘さんの友達を前に向かせたいという思いから,動き出しました。辛い経験をされた方は,同じ立場の方の気持ちがよくわかりますから,次第に助ける側になる人がおられます。そこから,新たな喜びを見いだそうと努力するんですよね。この文章を書かれた方の現在に,たくさんの角度からの光が差し込むことを祈っています。