一樹の蔭〜放免の平安事件簿〜
第二章 鳥辺野送り
左京の一角に、誠は放免仲間達と派遣されていた。
人死にが出たらしい。
命じられたのは「障りが出る前に、死の穢れを受けた場を速やかに清める」こと。即ち死体処理だった。
誠の顔色は優れない。
放免の仕事は総じてあまり気持ちの良いものではないが、その中でも特に苦手なものが死体処理なのである。
他の放免達が至って平気そうなのは、下賤の出で、汚れた場所で生まれ育ったからか。それとも、数多く生けるものを殺してきたからだろうか。
居並ぶ凶悪な面構えには、楽しげな気色すらある。
「おい。おめえ、びびってやがんのか?」
重い足を引き摺るように最後尾を歩いていた誠は、馬鹿にしたような声を掛けられびくりとした。
見れば、馴染みの顔ぶれがにやにやと下卑た笑みで誠を眺め回している。
手の震え、肩の強張り。そういった点にいちいち目を付けては面白がっているようだった。
……今はこれが、私の同僚か。以前、まだ罪人でも放免でもなかった頃を思うと、あまりの落差に目眩がする。
いや、昔を思い出しては駄目だ。まして比べるなど。死にたくなるだけで、害こそあれ、益にはならないことくらい目に見えているだろう。
眉をひそめたくなるのを抑え、無表情の仮面を張り付ける。
「問題無い」
やり過ごせ。表情は弱みのもと。ほんの少しの動揺もあげつらわれ、あらぬ疑いを持たれる。それが世の常だ。
そんな誠の態度を周りの放免達は嗤う。
「そうか! じゃあ、このめんどくせぇ仕事はおめえだけでやれ!」
「な……!」
思わず心の声が漏れる。しまった。
「あぁ!? 何か文句でもあんのか!?」
「いや、別に」
逆らうな。指示、頼み事、命令には諾々と従え。どんなに理不尽でも。
「おう! やっぱ、真面目がいると楽で良いな! 頼んだぞ!」
他の放免達は誠を一人残し、満足そうに去ってゆく。
……仕事を押し付けられてしまった。まあ、いつものことだ。
しかし、此度はさすがにまずいかもしれない。そう思うが、仕事なのだからやらぬという訳にはいくまい。
確か、例のものがあるのはこの角を曲がった所……ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決める。えいやっと前に進んで先の路を覗いた。
「うっ…………!」
そこには、仰向けに倒れて事切れた女。身なりからしてどこぞの貴族だろう。身に着けているものは立派だが、どれも土に汚れて悲惨な状態だ。市女笠は外れて遠くへ転がり、青ざめて苦悶の表情を浮かべた顔があらわになっている。
そして何より、喉に切り裂かれたような大きな傷があった。流れた血が、壺装束の襟元を朱く染めている。
吐き気をこらえて、口元に手をやる。ぎゅっと瞑った瞼の裏に映るのは、あの時の光景。
私を弟のように可愛がってくれた二人が、血溜まりに倒れ伏した姿。立ちこめる、鉄錆のそれに似た死のにおい。
過去から、目の前の現実から逃げたくて。身を引き、一歩、また一歩後ずさる。
「あっ……」
その途中で膝の力が抜け、かくっとよろけたのだが。誠が地面にぶつかる前に、誰かが後ろから抱き込んで支えてくれた。
「あ、ありがとうございま……」
「大丈夫かい?」
軽やかで少し笑いを帯びた、耳に心地良い低音。えらく聞き覚えのあるその声に誠が振り向くと。
雅な貴公子がそこに居た。声と同じく、常に微笑んでいる風に見える顔は、聡明さと上品さとともに気ままな彼の気質まで表しているようだ。頬に届く程長い前髪は、顔を自由に流れつつ目を覆うことが無いよう巧みによけられている。
「あ、なたは、あの時の……」
そう。彼は、立派な藤がある家で破落戸に絡まれていた貴族の少年だった。
誠は飛び退き、膝をついて頭を垂れる。
「見苦しい所をお見せしました。この度の粗相を、そして先日の無礼を心よりお詫び申し上げます」
そう、あれはまずかった。貴い身分の御方に手を差し出したり、聞かれてもいないのにべらべらと自分のことを喋ったり。極め付きは、許しも得ずにその場を辞したこと。
だが、その意図が正しく伝わらなかったようだ。
「はて、君が僕に何をしたというのか。とにかく、顔を上げて。そんなに畏まらないで良いから。」
鷹揚に言い、それでもじっと動かない誠を見て、少し困ったように手を差し出す。
「ほら、もう立ちなさい。僕と二人の時は何をするにも許しを請わなくて良いからね」
「御命令とあらばそういたしましょう」
誠は律儀にそう言ってから立ち上がった。ただし、差し出された手は取らずに。
「命令とか、そんな大層なものじゃないんだけどな……」
貴族の少年はぶつぶつと呟いた後、気を取り直して綺羅綺羅しい笑みを作った。
「とにかく、あの度は君のお陰で命拾いしたよ。まだ名乗ってなかったね。僕の名前は雅近。よろしく」
「雅近様、ということは……」
「おや、知ってるのかい? お察しの通り、僕は大納言家に連なる者だよ」
「連なるなど。他でない大納言様の御子息ではありませんか」
「子息と言っても末っ子、しかも放蕩息子ときている。それに、僕はあの人を父親だと思ったことは無いね」
何やら複雑な事情があるようだ。まあ、放免風情には知りようもなく、誠には無縁なことだが。
雅近は口を滑らせたと思ったらしく、ごほんとわざとらしい咳払いをひとつ。
「そ、そういえば。君はここで何をしていたんだい?」
雅近は頭を巡らせた。倒れている女に目を留め、少し動揺した様子で誠をちらりと見る。それに気づくなり、誠の胸は急に冷えていった。
「……私がやったと、お疑いになるのですか」
自分でも驚く程、刺々しい声が出る。どんどん表情を険しくしていく誠に、雅近は苦笑交じりに
「そんなことはしないよ。する訳がない」
と告げた。その言葉に、今度は頭が冷えていく。
「……っ! 申し訳、ありません」
「いや、別に良いけど。そうだね。僕が思うに君は……あれをどかせとでも命じられたのかな」
「…………」
全くの図星だった。沈黙が肯定だとわかったようで、雅近はふっと微笑んだ。
そして何を思ったか、誠の横を通り過ぎて女の死体の方ヘまっすぐ歩いて行く。
「どうされましたか!いけません!」
思わず肩を掴むが、雅近は誠の無作法を咎めることなく平然と返す。
「だって。君は、この仕事がよほど生理的に嫌なんだろう。君の性格からして、指示されたことは躊躇いを表に出さず淡々とこなすのが通常みたいだから」
「!?」
全て見抜かれている。性格云々はどこから情報を仕入れたのか不明だが。
誠が呆気にとられている間、雅近は膝をついて女の顔をとくと見ていた。
不意に、雅近が手を持ち上げる。
「あっ……!」
我に返った誠が制止するのも虚しく、雅近の手が女の頬に触れた。躊躇も嫌悪も一切無く。
『穢れが移ります。早く離れなさいますようお願い申し上げます』と誠は言いたかったが、その前に、驚きのあまり固まってしまった。
雅近の手に優しくさすられる度に女の表情がほぐれ、苦しげな様子が消えていったのだ。
安らかな顔になった女を、雅近は実に優雅な所作で抱き上げる。その様子は女の喉にある痛々しい傷も気にならない程、文句の付けようもない美しさだ。さながら、色鮮やかな恋絵巻のようだった。
「この御方の鳥辺野送りは僕がやっておくよ」
鳥辺野とは、京の三大葬送地の一つだ。つまり、鳥辺野送りとは遺体を鳥辺野まで運んで葬ることを指す。
「鳥辺野、ですか」
「え? 化野の方が良かったかな?」
化野も、京の三大葬送地の一つである。
「いえ、そうではなく。普通、道に転がった死人にいちいち鳥辺野送りなんてやりませんよ。きりがないですから」
「じゃあ、いつもはどうやってるんだい?」「その辺りの川に運んで行き……」
「水底に捨てるのか」
「そう、ですね」
雅近は信じられないといった様子だが、これが現実だ。
「可哀想に。なら尚更、この御方だけでも僕がきちんと弔っておかないとね」
「お待ち下さい!」
思わず出た大声。
その中に混じった、苛立ちの気配に戸惑う。
「自分の役目は自分で果たします、とでも? その心掛けは素晴らしいけど、無理は駄目だよ」
雅近様のどこまでも優しい言葉に、苛々してしまう自分がいる。
「この者だけ特別扱いして何になるのですか」
何を言っているんだ、私は。歪みきった言葉に嫌気が差し、何がなんだかわからなくなりそうだ。
誠の発言は身の程を弁えない戯言であったにも関わらず、雅近は真摯に受け止めてくれた。ふむ、と顎に手を添えて考え込んでいる。
「特別扱い、か。確かに、そうも取れるかもしれないね。しかし、いくら不公平だからって、幸福でない方の基準に合わせる必要は無いだろう? 理不尽だと思うなら、せめて自分の手が届く範囲だけでも救ってあげないと」
……紛れもない、正論だった。
「……耳障りなことを申しました。先程の言葉はお忘れくださいますよう」
「耳障りなんて思わないから安心しておくれ。さて、僕はそろそろ行くよ」
雅近の優しさへ報いる為、誠に出来ることがあるとすれば、
「お伴します」
と申し出ることくらいだった。それにも関わらず雅近が嬉しそうに破顔するので、誠はどぎまぎしてしまう。
こんな顔、久しくお目にかかれていなかった。ここ数年、私に向けられる笑みは馬鹿にするものや脅しを含んだものばかりだったから。
そして。以前、雅近様以外で最後に裏表のない笑顔を向けてくれた方々は、もうこの世にはいない。そう思うと、胸にちくりと痛みが走った。
❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿
半刻程で鳥辺野に辿り着いた。
そこで雅近が唐突にしゃがみ込み、手で地面を抉る。
「な、何をなさっているのです」
「何をって。この御方を埋めてあげるんだよ」
本当に、人が良すぎやしないか。鳥辺野送りに行った都人は、死者が身内であっても遺体をうち捨ててそそくさと帰ってしまう者がほとんどである。
「そういうことでしたら私がいたします」
これ以上、大納言様の子息ともあろう御方を死穢に触れさせたり力仕事に従事させたりする訳にはいかない。
「じゃあ頼むよ」
何故いちいち、嬉しそうな御顔をなさるのだろう。下々の者として当然のことをしているだけなのに。
誠はくすぐったいような、いたたまれないような気持ちで、死穢がたっぷり染み込んだ鳥辺野の土を掘り返す。雅近はそれを微笑ましげに見つめていた。
そんな視線を意識しないよう必死だったからだろうか。墓穴はかなり短時間で出来上がる。誠はそこに女の遺体をてきぱきと入れる。
雅近のお陰で、死体への忌避感は薄まっていた。
誠がそっと土をかけて手を合わせると、雅近はその後ろでおもむろに笛を取り出す。
鳥辺野。どこまでも寂しい死者の里に、鎮魂歌が響き渡る。万物を労るようでどこか悲しげな旋律は静かに満ち、暫く揺蕩った後、ゆっくりと引いていった。
誠はそれを聴きながら、一心に祈っていた。今日の女だけでなく、非業の死を遂げた全ての亡者達の冥福を。
最後の音色が闇に溶けていった後。
「恐れながら、申し上げたいことがございます。よろしいでしょうか」
「言っただろう? 私に対して許可を求める必要はないって」
「では。そろそろ暗くなってきましたので、お帰りください。夜の都は物騒ですから」
雅近はがくっと、気が抜けたように肩を落とす。
「そんなこと……わざわざ大袈裟な」
「お言葉ですが。そもそも何故、大納言様の御子息がこうやって二度も物騒な所にいらっしゃるのです」
「良いじゃないか」
「何も良くございません。先日、危険な目に遭っていたではありませんか。周りから忠告されなかったのですか」
雅近はいたずらっぽく笑う。嫌な予感しかしない。そう、誠は思った。
「今日の件も前の件も、僕の知り合いは全く把握してないよ。実はね、これは、僕の娯楽なんだ。誰にも秘密のね」
「危機感が無いにも程があります。今後は、そのような真似はなさらない方がよろしいかと」
誠が即座に返すと、雅近は満足そうな顔をした。
「人の心配をする時は、饒舌になるんだ……優しいね、君は」
ぱっと、心の中で記憶の欠片が弾ける。
「私など……優しくともなんとも…………っ!」
それを押さえつけるように声を絞り出して誠は言い募るが、雅近が遮った。
「謙遜しなくて良いとも。それにしても、本当に期待通りだ………………誠、僕の従者にならないかい?」
「え……」
誠は聞き間違いかと思うが、雅近は、一言一句はっきりと繰り返す。
「僕の、従者になってほしい」
「お戯れを。私は放免ですよ」
「そうだね」
雅近はあっさりと引き下がって、
「それじゃあ。また会えるといいな」
背を向けて、来た道を引き返して行く。誠は頭を下げて見送り、
「…………従者、か」
苦しげに眉をひそめて呟いた。
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筵にくるまって横になり、誠は低い天井を見つめる。
頭の中をぐるぐると巡るのは、彼に雅近が掛けた言葉達だ。
『人の心配をする時は饒舌になるんだ……優しいね、君は』出逢って間もなく、まだ緊張していた頃、あの方にも言われた。
「篤良(あつよし)様…………」
誠はぎゅっと顔を歪める。『従者にならないかい?』あれは冗談だったのだろうか。
出来る訳が無い。私にそんな資格は無い。
つらつらと考えながら、誠は眠りについた。
雅近に散々振り回されて疲れたからだろう。彼の眠りは、久々に深かった。