私には嫌いな人がいない

いや、いないというか。
苦手な人はいるけど自分の世界に入れないというほうが正しいか?
例えば職場で苦手な人がいても「苦手だなんて思わなかった」と周りに言われるくらい、表面上はうまくやりすごしている。

それで良いのではないか?どうして敵意を剥き出しにして、噛みつきにいくのだろうか?重箱の隅をつつくように粗探しをするのだろうか?
嫌いな人の悪口を言ったり、直接ぶつかりにいったり、“嫌なもの”にエネルギーを使う人の気持ちがわからない。純粋に「体力あるなぁ」ってちょっとすごいと思ってしまう。低体力者からすると羨ましい。

そもそも入口として、“人の良いところに目がつくか”“人の悪いところに目がつくか”で変わってくると思う。私は前者なので、第三者から「Aさんって◯◯らしいよ」なんて悪い話を聞いたりするとビックリしてしまうのだ。その事実にではなく、それを平気で人に言ってしまうことに。そして第三者フィルターを通した情報を、鵜呑みにしてしまう人もいるということに。

『自分の目で人を見る』
『自分に対する態度がすべて』


これは私がたぶん中学生くらいの頃からずっと大切にしている。
高校生の頃に好きになった男の子、「女遊び激しいからやめたほうがいいよ」とその男の子と同じ中学だった子に言われても“好きなのかなー”と思うほど気にしていなかった。
本当に忠告してくれたのかもしれないけど、そもそも女遊びが激しい=私にとってマイナス要素と決めつけられたくもない。お節介に感じてしまう。実際に別に女遊びが激しかろうが関係なかった。

まさに『それってあなたの感想ですよね?』状態。
私は右から左へビュンっと高速で受け流す。

このルーツは紛れもなく“自分が噂の対象になることが多い”ところから。そして大半が、根も葉もない嘘ばかりだということを知っているからだ。
なにごとも経験しないとわからないものだなぁと感じる。

人の悪口や愚痴を言っているときの顔って本当に醜い。そんな顔になりたくない。
悪口しか話題がない関係性なんていらない。
“Aさんの◯◯なところが嫌”なら“どうしたら良くなるか?”を考えるのが生産性のある生き方。
一見良いことを言っているように聞こえるかもしれないが、全部自分のため。

負のために使えるエネルギーがあるなら、自分に使いましょう。それだけでっっかいエネルギー、自分に向けなきゃもったいないもったいない。

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