ピカピカの一年生は不登校

なぜ発症してしまったのか?
どこに原因があるのか?
なにがいけなかったのか?

パニック障害や鬱病になり、人生一から色々なことを考えた。
関係あるかわからないが、私の中でその兆しと思われることを記しておきたい。

子供の頃から心配性で内気な性格だった。
人の悲しみや痛みに敏感で、例えば母が怪我をした時は自分のことのように泣いたし、二歳下の弟が幼稚園に入園した時は心配で泣きながら弟の教室まで見に行った。
自分と他人の感情の境界線が薄い。特にマイナスの感情に移入しやすく、本人は何とも思っていないようなことでも極度に落ち込んでしまう。それは今でも変わらない。

“優しい子”
“人の気持ちが考えられる子”
“面倒見が良い子”

などと言われ、それが性格・個性として育てられてきた。両親もそんなところを自慢だと言ってくれる。

“性格”を超えて“障害”になったのは小学一年生の頃。
担任の先生は、児童が給食を食べ終えるまで教室から出さない人だった。昼休みが終わり掃除の時間になっても席から立たせなかった。
残ったおかず。俯くクラスメイト。まるでその空間だけ見えないかのようにみんなが掃除をしている。平成初期の当時、私のクラスではそれが当たり前の光景だった。今なら大問題だ。
私は時間内に食べられていたが、残されているクラスメイトがかわいそうで見ていられず「自分もいつかそうなるんじゃないか」という恐怖と不安で学校へ行くこと自体を拒否するようになった。

これが不登校の始まりである。

毎朝大泣きしながら父の車に乗せられた。着いても降りない私を担ぐものだから、なんとか暴れてすり抜けようとする。父のベルトやボタンなどで私の体は傷だらけになった。
父はとっても優しい。長女の私には特別甘かった。思春期に反抗期がなかったほど大好きだ。
「行きたくない」と言えば「行かなくてもいいよ」と言ってくれると思った。今思い返せば父も出社の時間を過ぎていただろう。それでも母に投げず、私を登校させてくれたことに感謝している。
しかし当時は“優しいお父さんに裏切られた”という気持ちがあったのだろう。幼い私には悲しかった。

このように無理矢理学校に連れて行かれていた時期、完全に登校していなかった時期、保健室登校の時期、授業は受けられるようになったが給食が食べられずお弁当を持参していた時期…
などなどを経て、正確な期間はわからないが一年生のうちには通常どおりに通学できるようになった。

本当に有難いことに不登校期間も友達は友達のままでいてくれて、運動会などの行事も誘ってくれてなんとか参加することができた。
恩人です。今でも感謝しています。ありがとう。

◆当時の主な特徴
・夜は比較的元気で自信もある(明日は学校行くね!なんて言っていた)
・朝起きた時に憂鬱さと絶望感に襲われる
・時間内になにかしなければならない状況が苦手
・教室でじっと授業を受けることができない
・大きい音や声が苦手(聴覚過敏)
・人、動物、物にも感情移入しやすくすぐ泣く
・自分で決めたルーティンがある
・いつもと違うことをするのが苦手
・初めてのことに抵抗がある
・算数だけ極端に理解ができない

結局病院は受診していないため、いまだになんだったのかわからない。
この症状や特徴を見て当てはまる障害や病気があれば、ぜひ教えていただきたい。
記憶ではカウンセリングを受けたような気はするが、なにかが変わったとも思わない。
当時治療を受けなかったことについては特になんとも思っていないが、今になってみればなにかしら治療を受けていれば両親の負担が軽減できていたのでは?と思う。

子供にこういった特徴が表れるのは家庭環境の問題と言われるケースもあるが、私の場合は逆に恵まれていたから本当に私自身の障害だった。
両親に愛してもらっていたし、大切に育ててもらった。
父は前述のとおり。
母は仕事を抜けて給食の時間に教室まで来てくれた。給食ではなく母が作ってくれたお弁当を一緒に食べた。保健室で食べることもあれば、調子が良いと教室で食べることもあった。今振り返ると異様な光景だが笑。わざわざ朝にお弁当を作って嫌がる私を送り出し、昼休みに会社を抜けて小学校まで来てお弁当を一緒に食べて、また会社に戻る。
終盤の頃は教室まで入らず、教室が見える少し遠めから口パクで“大丈夫?”って様子を見に来てくれた。それに私がなにかしらの合図で返すというやりとりをしていた。
学校に行けない時期は大きな公園に出かけた記憶もある。確か近くに支援センターのようなものがあって、その帰りに寄っていた。
ちなみに支援センターの記憶はまったくない。

私が落ち着く夜の時間帯に両親と散歩に出かけるのも特別だった。
街頭や車のライトがキラキラしていて、歩く人も少ない。なんだか気が大きくなり、なんでもできそうな気がしてくるのだ。
「明日は学校行ける!」って何回も言ったような。結局行けないのだが。
そんな両親の壮絶な努力と友達の力があり、二年生からは楽しく学校に通えるようになった。

私の不登校は一旦落ち着いたのだった。

本当に一生かけても返せない恩。愛。
お父さん、お母さんありがとう。

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