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「瓊浦日録」、最後の記述
閏三月十七日、十八日 岩崎弥太郎は十九日を土佐への出発日と定めますが、帰郷の準備の傍ら、丸山へも出かけています。
十七日 この度、隅田敬治が(土佐に)帰国するのにあたって、そのついでに一寸罷り帰り、当地の形勢の彼是についてその委細を(藩上層部に)申し上げるよう、下許君(武兵衛)と相談の上で志を決し、その支度、用意をする。
隅田の帰国のついでに(弥太郎は隅田と帰路を共にします)、ちょっと帰って長崎の形勢について(藩に)報告する、とあります。「ちょっと」というのは、報告後に長崎に戻る予定ということでしょうが、藩から帰国の許しを得ておらず、一旦帰国という建前にしたのでしょう。藩命違反である以上、実際には二度と長崎に戻ることはないと考えていたはずです。しかし、七年後、弥太郎は新たな任務を得て長崎に戻ることになります。
午前中、大浦の清人林雲逵宅に行き、夕方に旅立ちの宴を行う約束をしました。午後、下許と出島を徘徊の後、帰途に浪花楼で歌妓らと宴会、花月楼の阿近と緑野も来ました。下許が先に帰った後、「余の贐のために」林の誘いで弥太郎は大坂楼に登りました。「緑野の秀色可掬(色っぽくて掬いとりたくなるほどだ)」次に浪花楼に行き「酒の間に鰻を食べた」後、再び大坂楼に赴き投宿しました。
十八日 程なく明日は発行(出発)の日と定め、あれこれ支度を調えた。隅田敬治に相談致し、この度の帰国の支度につき、金子を少々貸してくれるよう相談したところ、金四両を世話致してくれると約束した。
弥太郎は前日に金二両二歩を受け取っており、この日借用手形を隅田に渡しました。その後、恐らく別れの挨拶に二宮如山を訪れた際にも、偶然出会った隅田から金三歩三朱を受け取りました。その後、久松寛三郎宅に行き、一昨日の問いに対して「博物新編」「地球説略」などの書物は公然と売買して問題なく、法度の書物ではないとの返答を得ました。
隅田敬治と二宮如山、あるいは二宮塾との関係については、これまで特に記述はありませんでした。この日は、土佐から派遣された医学生に金を貸していたのを、帰郷前に回収したのでしょうか? 隅田とは何者なのか改めて興味が湧いて来ますが、手がかりがありません。
寓舎に帰ってから、下許と別れの杯を交わすために一緒に出かけ、途中砲術家中島名左衛門を訪れて借りていた書籍七冊を返却しました。下許は花月楼に行きたかったのですが、昨日の払いもあり浪花楼に入りました。多数の妓女に役者まで加わって宴会です。下許は先に帰りました。
弥太郎は花月楼に行ったものの「何分心持ち悪しく」(原因不明)、諸楼を冷却した後、浪花楼に戻って酒を飲みました。「眠りたかったが、隣席が甚だしく喧噪ゆえ、起きて回る」夜中を過ぎて寓舎に戻り、しばらくすると夢の境へ引き込まれました。
これで「瓊浦日録」は終わりです。しかし、弥太郎は翌十九日には出発しませんでした。十九日以降の日記は、前に触れた「西征雑録」(下のリンク参照)で読むことができます。このまま「西征雑録」へと続け、「瓊浦日録」の内容や人物と関連のある部分を中心に紹介します。なお、「雑録」前半は弥太郎が長崎に到着するまでの記録で、こちらもいずれ「日録」と関連する部分を紹介する予定です。