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弥太郎の出張旅行記 当て外れ大酔編

二月十三日 岩崎弥太郎は宿で「早起きして戸を開けると薄曇り。山々は緑の濃淡に淡い霞を帯のようにまとって愛らしい」昨日の酒はおいしかったらしく「残りの酒を温め、大きな盃で数杯傾けた」大村行きの船に乗ると、最初は風もなく穏やかでしたが、途中から波浪が湧き起こります。(船乗りが)素早く櫓を動かして波をさばき(船は)矢が飛ぶように進んだ」

「午前中、大村城下に着き浪華講松島屋に投宿した」書籍探索のあてにしていた江戸遊学時代の学友、大村藩士松林駒次郎(藩校五教館の学頭の一人)に書簡を出して連絡すると、出張で留守だと判明します。「遺憾々々」無計画な出張旅行の失敗です。

 ここで、下許武兵衛に後で読むようにと託されていたのに、酔って忘れていた手紙を懐中に見つけ、封を解きました。
烏羽玉うばたまの 今宵の宿を 人問わば 知らぬあなたと さして答えん
 色っぽい(?)戯れ歌でした。「一笑」(「烏羽玉の」は宵、夜の枕詞)

 旅の宿と「女性との交渉」は付きもののように江戸期以前には考えられていたようです。上の段落の「浪華講」は、宿での遊女買いや賭博を禁ずる協定を結んだ旅宿で、江戸後期に広まりました。遊女との交わりなどが旅の楽しみとされる一方で、煩わしいと感じる旅人も少なくなかったことが分かります。

『日本大百科全書(ニッポニカ) 』ネット版より

 松林留守の返書が届いたのは、弥太郎は寝転がって「草紙岩見(重太郎)仇討」を読んで暇つぶしをしていた時です)。弥太郎は(大村ではらちがあきそうにないので)肥後(熊本)に行く決心をし、松島屋を出て「文武修業宿」である山口清右衛門宅に移りました。

 目的地が変わったことで、なぜ宿を変える必要があるのかは不明です。「文武修行宿」は剣術などの修行者向けに指定された城下町の宿。修行人は無料で宿泊できると『剣術修行の旅日記』にあり、山口宅の浴場が汚いと弥太郎日記に書いているのは、無料である代わりに粗末なのかと思ったら、弥太郎は出発時にちゃんと宿代を払いました。不明点が出て来て調べるのは面白いのですが、謎のままに終わることもしばしば。悪しからず。

永井義男『剣術修行の旅日記』朝日新聞出版、2013年

 弥太郎は去る十二月初め、長崎に来る途中で、旧知の松林駒次郎がいる大村藩に立ち寄っていました。その際に知遇を得た五教館の士人四人が弥太郎を訪ねて来たので、書籍借り出しの件を相談すると、調べて明日返答するとの約束を得ました。

「しばらく経つと、館中(五教館)よりと申して段々酒肴しゅこうが持って来られて、色々と丸山のことを談じ、後は例によって箸陣をすることになり、盃を数杯を傾けた」で、「知らぬ間に大酔」し、夜半に喉が渇いて目を覚まします。暗闇の中で喉をうるおし、静かな雨音を聞きつつ再び眠りました。結語は「頻りに森田良太郎の夢を見た」

 上記、森田良太郎についての注釈に間違いがありました。「西征雑録」の旅が佐賀藩多久に到達したところで、読み間違いをしていたことが判明しました。
 この森田良太郎は弥太郎も学んだ儒学者岡本寧浦ねいほの塾生で、先に多久の草場立太郎(著名な儒学者草場佩山の長男。当時は多久の東原庠舎とうげんしょうしゃの教官)に詩の批評を求めていたのでは、と弥太郎が立太郎に尋ねた、という内容だったのです。年齢は違いますが、弥太郎と良太郎は交流があったようです。
 そういえば、弥太郎が夢に見た日記に書くのは故郷にかかわりの人物が殆どです。恥ずかしい読み間違いでした。反省のため、元の注釈をそのまま下に載せておきます(但し、後藤象二郎の夢の記述は本当)。(2024年8月1日記)


 上記の森田良太郎は「西征雑録」に名前があり、旅の途次、佐賀藩多久において、弥太郎が請われて詩稿の批評をした人物のようです(弥太郎も学んだ儒学者岡本寧浦ねいほの塾生に同名の人物がいますが、だいぶ年上で面識があったかも不明)。良太郎と深いかかわりがあったと思えず、不思議な一文です。ただし、弥太郎は時折知人の登場する夢を見て、そのことを日記に記しています。例えば「後藤大東(象二郎)の夢を終夜絶えず見続けた」(慶応4年12月25日)。こんな夢を記録した人物は、江戸時代に他にいたでしょうか?

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