見出し画像

弥太郎、長崎の町を歩き回る

一月六日 朝食後、岩崎弥太郎は下許しももと武兵衛と外出したものの、目的の久松善兵衛と二宮如山(敬作。シーボルトの弟子)には「不遇会えず」。午後、清人が集まって人を饗するというので、中沢と下許を誘って福済寺ふくさいじに登ります。眺望は「絶桂」だったものの、すでに清人たちは散会、ここでも空振りでした。

 そのまま市街に出て出島に行き、オランダ商館前や「唐館」の前を通って、港の裏から「蛮船」を望見します。下許は疲れたので去りたいと言い出し、やがて「疾走」して二人の前から姿を消します。そこに、坂本龍馬ファンにはお馴染みの商人が現れます。

その後間もなく、小曾根こぞね六郎乾堂けんどうと思いがけなく出会った。小曾根が言うのに、これから大浦に新築している(埋め立て地を造っている)場所に行くが、一緒に行く気はあるか、と聞かれた。弥太郎らは喜んで六郎の後について行き、新築場に来た。この「新築」は、六郎が将来の商売を考え、ここに倉庫を置くために、自力で海に臨む土地を築いているが、まだ完成していない(と語った)

 小曾根乾堂は長崎の有力な商人で、幕末史では坂本龍馬や海援隊を後援したことで知られます。この時はまだ、海援隊の前身亀山社中すら結成以前。弥太郎は長崎到着後一ヶ月の間に小曾根と知り合いになっていたようです。

 小曾根乾堂の名は、坂本龍馬や勝海舟と共に幕末史に登場します。現在の長崎市小曽根町は、小曾根が埋め立て地を築いたことに由来します。弥太郎の日記は、埋め立て進行中の同地に関する貴重な証言と言えるでしょう。
 なお、「小曾根」の表記は普通「小曽根」ですが、ここでは岩崎弥太郎の日記刊本の表記に従います。

 弥太郎らは、小曾根に誘われて料亭に行きます。ここで、弥太郎は日記中にちょっとした情景描写を差しはさみます。何気なく読み過ごしそうですが、後の時代の小説や随筆の文章を思わせる描写の挿入の仕方です。こんな文章を書く人、弥太郎以前にいたでしょうか……? 

巳屋に至ると、あにはからんや六郎の兄弟と越前国の人某が団欒だんらんし杯をついでいた。夕陽が窓から射し込み、とても温かい。続けて数杯を味わい辞去した。

 その後、丸山の待合に行き「心事」を(中沢と)語り合います。帰宿後、弥太郎は同宿の者に漢文の読み方を教えました(授句読)。弥太郎は土佐で漢学塾を開いていたことがあり、同宿者から学問の師匠格とみられていたようです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?