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「岩崎弥太郎 長崎蕩遊録」1(10月~12月)
岩崎弥太郎は第一回長崎赴任時の日記「瓊浦日録」を「崎陽蕩遊録」と別称しました。しかし、岩崎弥太郎は長崎に来るまで遊女遊びに縁がなく、到着後もすぐに蕩遊を始めたわけではありません。弥太郎が長崎に向かう道中に記した「西征雑録」から、弥太郎(と同行の上司下許武兵衛)が宿場の遊女から誘いを受けた箇所、長崎到着後一月弱の間に市中の酒楼に行った箇所を取り上げます。
<堅物弥太郎、「遊郭都市」長崎に到着> 高知から長崎への道中、宿場で遊女の誘いがあっても、弥太郎と下許武兵衛は断固として応じなかった。長崎到着後、弥太郎はつきあいで酒楼に行くようになり、一度妓女の色香に迷ったが、自制した。
なお、「西征雑録」と「瓊浦日録」は、安政6年(1859年)10月から翌万延元年(1860年)7月までの日記なので、下記紹介では「月日」のみを記し、「何年」という表示はしない。
長崎までの道中(10月~11月)
10月25日 道後温泉の宿に到着して酒を飲んでいると、各所の妓楼から盛んに誘いが来たが、下許はそれを激しい声で叱咤し、弥太郎は長旅で疲れたのでと「固辞」した。
11月3日 安芸宮島で泊まった宿の女が娼妓を呼べ、と勧めるのを弥太郎と下許はからかっていたが、余りにしつこかったので、遂には寝たふりで誘いに返事をしなくなった。
11月17日 下関の宿の者から暗に妓楼への誘いを受けたものの、外出。下許と浜辺を散歩し、船を借りて沖で酒を飲んだ。すると三、四人の「買婦」を乗せた舟が「突入」して来たので、弥太郎は「手を振って、大拒絶」したのに、買婦の一人は弥太郎らの舟に居座って下りない。壇ノ浦から亀山神社の下まで行って下舟。その辺りでも買婦が「術や媚態」を尽くし情事に誘うのを、弥太郎は「笑うべし」と書いている。
11月21日 太宰府で宿を取ると、辺りは妓楼が立ち並び賑やか。「近年、買婦はご禁制」とのことで、弥太郎と下許は酒席に来た女が歌うのを聞いた。
長崎到着後の酒席(12月)
12月6日 長崎に到着。土佐藩の定宿、遊郭丸山にほど近い鍛冶屋町の大根屋に投宿、先着していた下許や同郷の者たちと楼に上がり酒を酌み交わす。楼の名も場所も記述なし。到着したばかりで、弥太郎には不明だったか?
12月9日 下許と、長崎で商売の相談役となる竹内静渓と市中を徘徊、新橋町の一酒楼で酒を飲んだ。
12月24日 大根屋の同宿者と梅園楼という酒楼に行き、「妓娼」二人の奏でる弦の響きに助けられて大酒を飲む内、弥太郎は土佐藩の先輩格に暴言を吐いて後で謝罪することに。
12月25日 下許と「小酒楼」に上がり、弥太郎は酔って陪席の女と房(寝屋)に入らんばかりの勢いになったが、「断然心を制して」下許と宿に帰る。