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暗転、蕩遊の夢から覚める?
三月三日 晴。天光温和。崎陽(長崎)の各家庭の少年らが紙鳶(凧。長崎ではハタ)揚げに興じたので、入り乱れて花が散り、蝶が舞うかのようだった。
春のハタ揚げ合戦の美しい叙景から始まった日記は、直後に暗転します。寄宿先の老婆から、昨夕、中沢寅太郎から至急会いたいと使いがあり、その後、中沢が直接寓舎を訪れて待っていたと聞かされたのです。弥太郎は朝飯も食べないまま、中沢の寄宿先に急ぎました。
中沢は布団から抜け出し、余を一室に引き入れると声を潜めて「大変です」と言った。「一昨夜、(土佐藩の)監察府より(下横目の)純次と泰吉が遣わされ、その一人が昨日ここへ今井純正を呼び寄せて、矢庭に召し上げました」
中沢から、弥太郎と下許に「御仕置所で御用の趣き」があると告げられたので、弥太郎は一旦寓舎に戻り、下許武兵衛に委細を話して引き返しました。その後、泰吉から交易用商品見本入りの箱と下許あての書状を渡されたので、携えて寓舎に戻りました。肩すかし? 少し安堵?
「御仕置所」は下横目の寄宿先の部屋で、中沢と同じ宿と推察できます。弥太郎に預けられた箱は二つ、中身は白砂糖、茶、椎茸でした。いずれも土佐の産品で、下許と弥太郎を長崎に派遣した土佐藩参政吉田東洋が送ったものです。下許の長崎での主な役割が交易の関連だったことが分かります。
弥太郎は浪華楼と花月楼で昨日「随分快く孔兄を散じた」分の会計に行きました。今日も泊まっていくように勧められましたが、多用だからと断わりました。「今朝の様子では、(これまで味わって来た)蕩遊の夢もたちまち驚破し(てしまう)、憫れむべし、笑うべし」
午後、泰吉が寓舎に来たので、今井の「仕業」について下許と談じました。弥太郎は夕方、泰吉が帰るのに途中まで同道し、帰寓後、中沢を送別のために鰻屋に誘おうかと考えます。これまで日記に記述がないのですが、中沢はすでに土佐に戻ることが決まっていたようです。しかし、「最早夜も遅く、かえって如何敷く下横目どもに思われるのも不本意なので、明かりを消して就寝した」
弥太郎は、下横目が到来したこと、しかも間髪入れずに今井を捕縛した果断な措置に、夜の街での所業が問題になるのではと心配になったようです。日記の最後には、「報国十年、未だ志成らず」と我が身の不甲斐なさを嘆く七言絶句が記されています。