弥太郎、初めて遊女屋に行くも脱走
一月十七日 午前、清人某に手紙を書くができあがりません。午後、下許武兵衛と共に、西洋医術を修めた「幕府の医員」松本良順を訪ねました。土佐藩から「洋外の書」の価格などを「点検」するよう命じられたけれど、「我輩は蟹の横ばい文字(蟹行=横書きの文字)」を知らないから、と良順の助力を求めたのでした。「談話を久しうして帰る」。
「晩飯」の後、弥太郎は強引に誘われ初めて丸山の妓楼(遊女屋)に足を踏み入れます。その夜の顛末を、弥太郎は詳細かつ軽妙に記しました。弥太郎の長崎日記中、白眉の一編です。
「晩飯」後、中沢寅太郎と止宿先の主人大根屋新八の次男(二子)熊次郎は、丸山に行って遊女屋に上がろうと計画し、「中沢はいそいそと箱の中から美服を探し出しておめかし」しています。二人は下許と弥太郎を連れ出そうとしますが、弥太郎は乗り気でありません。弥太郎が「三十六計逃げるにしかず」と考えているのを同行者は察しており、下許は後ろから追い立て、他の二人は弥太郎の両腕を取って逃げられないようにします。
地獄門(丸山遊郭の入口)に入ろうとする時、弥太郎は「妓楼に上がるのがいやで、心神が不安になる」のですが、同行者は理解してくれず、どうにもしようがありません。弥太郎は遊女屋は初めてだったようです。
まず当時丸山随一と目される「津の国屋」に行きました。弥太郎が嫌がるのを「中沢が手を取り、熊次郎が肩を押して」中に入り、相手になる遊女はいるかと問うと、いないとの返答。中沢と熊次郎は意気阻喪、別の妓楼に行って同様の問答を行い、弥太郎は「いない」と答えてくれと祈りますが、「あり」という答え。弥太郎の心は揺れ動きます。
「中沢と熊次郎は躍然として楼に上がり、足音は雷のよう」老婦に案内された部屋には蝋燭の光が映り、二人の意気込みは盛り上がって溢れ出しそうでした。弥太郎は、故郷を離れる時に父が涙を流し(涕泣)、発した肉声が聞こえるようで申し訳ない気持ちです。けれど、自分だって木石ではないし、同行者が自分を追い立てる激しさから逃げられない、と動揺しながら、上がっても遊女と枕を共にしないと自ら心の中で誓います。
ところが、妓楼の老婦に料金を求められると、皆の持ち金が足りないことが判明し狼狽します(細かい料金の記述あり)。老婦は「たとえ一銭でも足りなければ妓女は同席できない」と強気です。中沢が懐剣をかたに差し出すと申し出たものの断られ、熊次郎は憤然と声を上げました。
余はここで急に立ち上がり、妓楼から走り去った。二人もそれに続いた。「邪門」に帰り着くと道は真っ暗で、中沢は大急ぎで歩いたために履物の歯を折った。余は足に任せて突っ走り、宿に帰ると下許君がいた。互いを顧みて大笑いして転げ回った。これも旅の思い出の情景の一つ(一況)だ、と談じたり笑ったりして、眠りについた。
<参考情報>
松本良順は幕末~明治の医師(1832~1907)。幕府に命じられてオランダ人医師ポンペに西洋医術を学び、1861年(文久元年)に創設した長崎養生所で医学教育と臨床にあたりました。後に明治政府の求めで出仕し、軍医制度の発足に尽くして初代陸軍軍医総監となります。
丸山で、下許武兵衛は途中から弥太郎ら三人とは別行動を取ったようですが、これについて説明がありません。上士(下許)と下士(弥太郎と中沢)の間には、下士と町人以上の間隔があったようにも思われます。また、下許らの遊郭行きには、単なる遊び以上の意味があったとも考えられるのですが、これについてはいずれ考察する予定です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?