命の紙シリーズ「風に消えた声 」
少年サッカーの試合は白熱していた。
太陽が照りつけ、ピッチの上では選手たちが汗を流しながら必死にボールを追いかけている。
その姿を見守る保護者たちの声援が飛び交い、グラウンド全体が熱気に包まれていた。
コーチの声が大きく響き、選手たちに指示を出す。
どのチームも懸命に戦い、ゴールが決まるたびに歓声が上がる。
その瞬間、誰もが勝利を目指し、青春の輝きを感じていた。
だが、突然その歓声が止んだ。
ピッチの中央にいた少年が、胸にボールを受けた瞬間、突然その場に崩れ落ちたのだ。
彼の背番号は10番。まだ幼い顔をした、細身の少年だった。
その瞬間、周囲は一瞬で凍りついた。
試合の緊張が一気に切れ、静寂が広がる。選手たちも、保護者たちも、誰もがその異変に気づき、息を飲んだ。
「おい、大丈夫か!」
コーチが急いで駆け寄り、少年の肩を揺さぶった。
彼は30代前半、熱気で汗をかいた短髪の男性だ。
普段は冷静で落ち着いた指導者だが、今、目の前で起きた光景に動揺を隠せない。
少年の体は動かない。呼吸も、心拍も感じられない。
「心臓しんとうだ!AED!誰か持ってこい!」
コーチは必死に叫んだ。
その声は、普段の試合中には聞いたことのないほどの力強さを持っていた。だが、内心では恐怖が胸を締め付けていた。
自分の手ではどうにもならないことを悟った瞬間、冷たい汗が背中を伝って流れる。
体育館に駆け込む保護者たちを見送りながら、コーチは拳を握りしめる。
「頼む…絶対に助けてくれ…!」
数十秒後、AEDが運ばれてきた。
コーチはそれを受け取ると、震える手でパッドの袋を開け、少年の胸に貼ろうとした。
その瞬間、心の中で一つの迷いが生じる。
「成人用と小児用…どっちだ?」
コーチは一瞬、躊躇した。
AEDには成人用と小児用のパッドがあり、どちらを使うべきか迷うのは当然だった。
しかし、すぐに思い出す。
少年は小学生であり、成人用パッドを使うべきだ。
即座に判断を下し、成人用のパッドを胸に貼り付けた。
「成人用だ。間違いない…!」
AEDの指示を待ちながら、コーチは無意識に手を震わせていた。
周囲では、泣き声や叫び声、恐怖に満ちた声が渦を巻くように響いていた。その中でコーチは、冷静さを保とうと必死に心を落ち着けた。
「落ち着け!静かに!」
コーチは叫んだが、その声もすぐにかき消された。
焦りが手を震わせ、冷静さを欠いていく。AEDのガイダンスが耳に届かなくなるほど、周囲の動揺は大きくなっていた。
コーチは何度も深呼吸をし、心の中で自分に言い聞かせた。
そのとき、AEDの箱から一枚の白い紙がふわりと舞い上がった。
その紙は、まるで風に導かれるように、空中でひらりと舞って、少年の前に落ちた。
不思議なことに、周囲の騒音が一瞬で止んだ。
まるで、世界がその紙に引き寄せられたかのようだった。
子どもたちがその紙をじっと見つめ、周囲の騒ぎが嘘のように静まり返った。
「…よし!」
その静寂を逃さず、コーチはAEDの音声に集中した。
しっかりとその指示を聞き取り、冷静に行動を起こす。
「ショックが必要です。ボタンを押してください。」
コーチは震える指でボタンを押した。
瞬間、少年の体がピクリと反応し、まるで電流が走ったかのように体が跳ねた。
コーチの心臓が止まりそうなほどの緊張感の中、保護者たちが祈るように見守っていた。
その時、遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。
だが、それでもコーチは、次の指示を待つことしかできなかった。
「心肺蘇生を続けてください。」
「頼む、生きてくれ…!」
少年の命を、誰よりも守りたい。自分の手のひらで、何とかこの命をつなげたかった。
再び、冷静を装いながら心臓マッサージを続ける。
数分後、少年がうっすらと咳をし、目を開けた。
その瞬間、コーチの体から力が抜け、地面に座り込んだ。
「ああ、よかった…!」
コーチは涙を浮かべ、安堵の息を漏らした。
周囲の保護者たちも同じように胸をなでおろす。
少年の命がつながった、その奇跡の瞬間を目の当たりにし、誰もが言葉を失っていた。
救急隊が少年を担架に乗せ、運び出す間、ピッチには安堵の空気が漂った。誰もがその光景に目を奪われ、そして心からの感謝の気持ちを抱えていた。
そのとき、誰かがあの白い紙を拾い上げた。
「また救ってくれたんだな…」
その声に振り返ったコーチの目に、若い男が映った。
彼はその紙をじっと見つめ、ややうつむき加減で呟いていた。
男は紙をコーチに手渡し、周りの誰にも声をかけず、そっと歩き出した。
視線を交わすこともなく、まるで自分の場所を知っているかのように、試合後の喧騒をすり抜けていく。
コーチはその人物に一瞬目を留めたが、すぐに救急隊の方へと意識を戻した。
少年の命が助かったことにほっとしたのも束の間、その男のことが気になり始めた。
あの紙を拾うなんて、偶然なのか、それとも…
男が試合場を後にした後も、コーチの心にはその人物の姿が引っかかっていた。
彼が持っていた紙。その言葉。「次にこの紙を手にしたあなたが命を救います。」
それはただの言葉ではない。何か、深い意味が込められているような気がした。
まるで運命のように、その紙を手に取ることが、誰かの命を救う瞬間と繋がっているかのように。
次にその紙を手にした人物は、どんな選択をするのか――。
そう思いながら紙をAEDボックスの中に戻す。
コーチはその男が何者で、どこから来たのかを追おうとしたが、その場所にはすでに人々の姿が消えていた。
あの白い紙がどんな運命を秘めていたのか、そしてその紙を拾った男が何を意図していたのか。
もしかしたら、すでに答えは彼の手の中にあるのかもしれない。
その日から数週間後、コーチはあの男の姿を再び見かけることはなかった。
しかし、ある日、ふとしたことで見つけた小さな新聞記事が彼の目に止まった。
「お手柄大学生 カフェで人命救助」
自分が選手を助けた数日前だろうか、記事にはこう書かれていた。
「先日、都内のカフェで突然倒れた女性が、近くの大学生に救命処置を施され、命を救われた。大学生は周囲が驚く中、冷静にAEDを使用し、意識を取り戻させたという。」
記事の最後に、男が発したという言葉が残されていた。
「次に、この紙を手にした者が命を救うのだろう。」
コーチは記事を何度も読み返した。
どこかで交差しているような気がしたが、その手がかりを追い求めることができないままでいた。
あの紙には、ただの偶然でない何かがあった。
男の存在、そしてその後に残された言葉には、まだ続く物語があるような気がしてならなかった。
「きっと、そうだ。命を救う輪は続いていく。」