命の紙シリーズ「小さなヒーロー」
小学校6年生の僕は、つい最近、心肺蘇生法の授業を受けたばかりだった。
先生が胸骨圧迫やAEDの使い方を教えてくれたけど、そのときは「こんなの、自分が使うことなんてないだろう」と思っていた。
どこか他人事だった。
何かあれば、大人が何とかしてくれる。
自分には関係ないと思っていた。
でも、その日、甘い考えは一瞬で打ち砕かれた。
金曜日の夕方、母さんと僕は近所の公園に散歩に行った。
母さんは妊婦で、もうお腹がかなり大きい。
動くたびに息を切らしているのがわかるけど、今日は珍しく元気そうだった。
僕も、赤ちゃんが生まれる日が楽しみで、心配なんてしていなかった。
「ちょっとだけ散歩しようか?」
母さんは少し疲れているように見えたが、僕は気にせず「うん」と返事をした。
母さんの笑顔がそれだけで十分に思えたからだ。
でも、公園に着いてすぐ、すべてが変わった。
ベンチに座ろうとした瞬間、母さんが急によろめき、次の瞬間、地面に倒れ込んだ。
「母さん!?」
僕は叫んだ。
けど、母さんは動かない。
顔は真っ青で、息もしているかどうかわからない。
周りに誰もいない公園。僕と母さん、そしてただ静かな風が吹くだけだった。
「誰か!」
「助けて…!」
声を上げたけど、返ってくるのは風の音だけ。
心臓がバクバクして、頭が真っ白になった。
どうすればいい?
誰もいない。
母さんが、このままだとお腹の赤ちゃんも…。
泣きそうになりながら母さんを揺さぶったが、反応はない。
何かをしなければならないのに、体が動かない。
目の前がぐるぐる回る。
そんなとき、ふと自分の胸元に目が留まった。
そこには母さんからもらったお守り。
母さんがよく言っていた。「いざというとき、このお守りを開けて」と。
今がその「いざというとき」なのか?
震える手でお守りを開けると、中には一枚の紙が入っていた。
「次にこの紙を手にしたあなたが命を救います。」
裏にはAEDの使い方が書いてある。
その言葉を見た瞬間、全身が凍りついた。
僕が救う? 無理だ。でも、誰もいない。
このままでは母さんも赤ちゃんも…。
そんなとき、ふと目が留まったのは公園のトイレの前にあるAEDの設置ボックスだった。
「そっか…AEDだ…」
僕は立ち上がり、震える手でボックスを開けた。
箱の中にはオレンジ色のAEDが光っている。
心臓がドクドクと音を立て、手が震えながらもAEDを取り出した。
でもその瞬間、思わず立ちすくんだ。
「でも、AEDなんか使ったら… 妊婦のお母さんも赤ちゃんも…どうなっちゃうんだろう…」
僕の中で、迷いが広がった。
母さんは妊婦だし、お腹の赤ちゃんだって無事でいてほしい。
AEDを使って本当に大丈夫なのか?
本当に僕がこんな小学生の僕が、母さんを助けられるのか?
「僕にはできない…こんなこと…」
心の中で何度も自分に言い聞かせた。
けれど、その一方で、あの紙に書いてあった「次にこの紙を手にしたあなたが命を救います」という言葉がふと頭に浮かんだ。
あれは、僕が何かをしないといけないってことだったのだ。
「誰か、助けて!」と叫びたい気持ちを抑え、AEDの電源を入れた。
手が震えているけど、これ以上時間をかけたら母さんが…お腹の赤ちゃんが…。
「やるしかない!」
AEDは落ち着いた声で
「反応が無いこと呼吸が無いことを確認してください。」
「胸を裸にしてAEDのふたから四角い袋を取り出してください」
「袋をやぶいてパッドを取り出してください。」
「パッドを青いシートから剥がして図のように右胸と左わき腹に貼ってください。」
「身体に触らないでください。」
「心電図を調べてください 。」
「電気ショックが必要です。」
「身体に触らないでください。」
と次から次と指示を出していく。
僕は必至にガイダンスを聞きながらその通りにしていく。
次の瞬間
AEDから「体から離れてください。 点滅ボタンをしっかり押してください。」というガイダンスが流れる。
やっぱり無理だ。
僕には押せないよ、、、
すると紙が熱を帯びた気がした。
僕がやらなきゃ!
心臓がバクバクと響いて、体中が震えていた。
僕はAEDの指示に従い、点滅ボタンを押した。
その後、AEDから胸骨圧迫を行うように指示が出た。
今度は胸骨圧迫?AEDだけじゃダメなのか?
僕の小さな手が母さんの命を救えるのか?
けれど、手は震え、力が入らない。
そんなとき、母さんの声が聞こえた気がした。
「赤ちゃんを守るためにも、あなたが助けるのよ。」
僕は涙をぬぐい、この前の講習で教わった通り、強く、速く、止めずに胸を押した。
恐怖と不安が押し寄せてきたけれど、今はそれに立ち向かわなければならない。
「お願いだよ…目を覚まして、お母さん…」涙がこぼれ、視界がかすんだ。でも、必死に押し続けた。
心の中で先生の声が響く。「強く、速く、止めないで!」
胸骨圧迫を続けながら、僕は必死に祈った。
「お願いだよ…お母さん…」
必死に胸を押し続けていると、遠くから誰かの足音が聞こえた。
近づいてきた大人がすぐに救急車を呼んでくれた。
やがて、救急隊が到着した。
僕の胸骨圧迫がどれだけ役に立ったのかわからない。
でも、母さんの手が少しだけ僕を握り返してくれた気がした。
数時間後、病院で母さんと赤ちゃんが無事だと聞いたとき、僕は初めて安心して泣いた。
病院で医師が母さんと赤ちゃんの無事を伝えてくれたとき、僕は安堵した。そのとき同時に、医師が一言付け加えた。
「AEDは妊婦さんにも安全なんです。お母さんも赤ちゃんも、あなたのおかげで助かりましたよ。頑張ったね。」
その言葉に、僕は初めて胸の中が温かくなった。あの瞬間、迷わずに行動できたことが、正しかったんだと。
赤ちゃんは元気に生まれ、母さんは笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。
お守りの中にあった「命の紙」――それがなければ、僕は動けなかったかもしれない。
でも、これからは僕があの紙を生まれてきた赤ちゃんに渡す番だ。
赤ちゃんが大きくなったとき、きっと命を救う瞬間があるかもしれない。
そのとき、僕はこの紙を渡してあげたい。
「僕も誰かを守れるんだ。」
そう気づいた瞬間、僕は少しだけ、大人に近づいた気がした。