命の紙【秋ピリカ】
「次にこの紙を手にしたあなたが命を救います」
彼女が駅のベンチで見つけたのは、そう書かれた一枚の紙だった。
普段なら目もくれないはずだが、その一文が胸に刺さり、思わず手にすると「AEDの使い方」と記されていた。
彼女の頭の中には過去の出来事が蘇る。
数年前、突然目の前で倒れた人を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
喧騒の中「AED!」と叫ぶ声が耳に残っている。救えなかった後悔が、今も彼女を縛りつけている。
ざわめきが聞こえ、ふと我に返る。
人だかりの中心には、一人の男性が倒れていた。
誰かが叫んでいる。「AEDを探して!」その瞬間、彼女の心臓は凍りついた。
全身に冷たい汗が広がり、脚がすくむ。
(あの時と同じだ)
過去の恐怖が押し寄せ、心臓が喉元で強く鼓動した。
手足が震え、心の中で「無理だ、私にはできない」と繰り返していた。
その時、バッグの中の紙を思い出した。
「あなたが命を救います」
震える足を引きずるように動かし、駅のAED設置場所へ向かう。
心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、AEDを持ち帰り、男性のもとに駆け寄った。
周囲の視線が彼女に集まるのが分かった。
心臓の音が響き、遠くから人々のざわめきが聞こえるが、その声は水の中で響くようにぼんやりとしていた。
視界は狭くなり、目の前の男性の顔だけが鮮明に見えた。
震える手でAEDを開く。
「電源を入れてください」という機械の声が、彼女を現実に引き戻す。
パッドを取り出し、男性の胸に貼り付けた。
しかし、その瞬間、不安が全身に襲いかかった。
(もし、失敗したら?私のせいで、この人が…)
手は震え、焦燥感が増す。周囲の音は完全に消え、時間が止まったような感覚に囚われ、手足が冷たくなる。
(無理だ。私にはできない。)
彼女の心は再び過去の無力感に飲まれかけた。
しかし、その時、紙が熱を帯びた気がした。
(私がやらなきゃ。)
決意が彼女を突き動かした。
震える指でAEDのショックボタンを押す準備をした。
小さく「お願い」と呟くと、ついにボタンを押した。
ボタンを押した瞬間、男性の体がピクリと跳ね上がった。
それと同時に、彼女の心臓も大きく跳ねたように感じた。
しかし、それからは何も起こらなかった。
(何で…)
不安が襲いかかった瞬間、男性の胸がゆっくりと上下し始めた。
それを見た瞬間、彼女は深く息を吸い、全身の力が抜けた。
人々のざわめきが戻り、誰かが救急隊を呼んでいるのが耳に入った。
彼女は立ち尽くし、握りしめていた紙を見つめた。
(この紙に助けられたんだ。)
胸の中の不安は消え、代わりに使命感が広がっていった。
しかし、紙の下に小さな文字が現れた。
「次の人にこの紙を託しなさい。」
「えっ?」と彼女は小さく声を漏らした。
(私は紙に選ばれたんだ)
彼女は駅のベンチに紙をそっと戻した。
(この紙を拾った誰かが、また新たな命を救ってほしいという期待を込めて。)
次にこの紙を拾うのは、あなたかもしれない。
(1200字)
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初めて小説を書いてみました。
運営の皆さま、素敵な企画をありがとうございます。