VTuberという実存、あるいは共同幻想
この記事は、私がVTuberという存在に出会ってから今まで、いつか形にしようと思ってぼんやりと考えていたことについて、実存主義をひとつの手掛かりに輪郭を与えてみようと思い立って書き留めてみるものになります。
VTuberという存在が多くの人々に認知されて久しい現在。この間、急速に規模が拡大し、かたや消失し、様々に展開されるVTuberたちの活躍や一方で引き起こされる諸問題について、VTuberとは何者か、いかにあるべきか、どのような構造を持つのかについて様々に議論されてきたことと思います。
先日、星井美希さんの配信がSHOWROOMという配信サイトで行われました。これは技術的にはまさにVTuberたちが行ってきた形式の延長上にあり、アイドルマスター(アイマス)の登場人物が圧倒的な実在感をもってリアルタイムに私たちと交流したことでネット上に大きな反響がありました。VTuberのファンやVTuber自身もツイッターや自身のチャンネルなどで反応し、その与えた意味について盛んに議論されていたように感じます。
星井美希はVTuberか?という問いに対しては、私はNoといえると思います。彼女自身がそのように名乗っておらず、SHOWROOMに「バーチャル」というカテゴリがある中で、あくまでも「アイドル」として星井美希という存在が配信を行った、という点に素直に意味を見るべきだと思います。たとえそれが技術面でVTuberの行う配信と何ら変わらない物であるとしても。
しかし、そもそもこのようなカテゴライズに拘泥することにどれほどの価値があるのでしょうか。黎明期には、「VTuber」という共通項は人々の耳目を集めるメリットがありました。しかし現在そのカルチャーが定着する中で生み出されていった多様性を、もはや一括りに収めるのは難しいのではないかというのは、多くの人の指摘する所だと思います。
VTuber、バーチャルYouTuberの「バーチャル」という言葉は非常に厄介で、この接頭語が彼らのあり方を時に誤解させ混乱を招いてしまう一因なのではないかな、と感じています。”Virtual”という言葉は本来「実質の」、とか「事実上の」、あるいは「虚像の」、といった意味であり、現実ではないけれどもあたかも現実であるかのような、あるいは現実の拡張としての空間といったニュアンスを持つものが、特に日本では電脳、電子といったデジタルなイメージと強く結び付けられがちに思われます。電子的な要素は「バーチャル」を実現する為の手段であって目的ではなく、オルタナティブな現実や拡張された「新しい現実」で自分という存在を活かすという点にこそ、そもそも多くの人々が魅力を感じてVTuberは拡大していったのではないでしょうか。
「バーチャル」を名乗るVTuber達ですが、その捉え方は百人百様です。始まりのVTuberであるキズナアイはデジタルな空間の住人そのものですが、他のVTuber達がすべてデジタル世界の住人かというと、そうではない。彼らはネット回線を通じて、画面越しに我々の目の前に現れはしますが、例えば鳩羽つぐは西荻窪の住民ですし、リアル世界の食べ物を食レポするVTuberは多数います。「バーチャル」は必ずしも彼らが電子的存在であることとイコールではありません。中にはバーチャル○○(地名)に住んでいる、バーチャル○○(食べ物)を食べると断りを入れるVTuberもいますが、これは前述の誤解を避けたい心の現れからそう説明していることもあるのかなと思います。
現実世界の食べ物を食べるからバーチャルじゃない、3Dじゃないからバーチャルじゃない、生身でも活動してるからバーチャルじゃない、VTuberと同じことをしているから彼女はバーチャルだ。そうではなく、「バーチャル」というその言葉が彼らの足枷になることなく、画面の向こうにいる彼らの存在をそのまま素直に存在として受け入れられる界隈であってほしいな、と私は思うのです。「バーチャル」という肩書きそれ自体が彼らの自由な活動を阻むドグマとなっては本末転倒の不幸です。あるいはバーチャルYoutuberという言葉の解体と再構築(脱構築)が必要な時期に来ているのかもしれません。
「実存主義〔existentialism〕」という言葉をご存じでしょうか。実存主義はサルトルという哲学者の述べた「実存は本質に先立つ」というフレーズに代表される思想です。これだけでは意味不明ですね。ここでいう「実存」とは、例えばひとりの人間の存在を指します。「本質」とは、サルトルの考えによれば、あるものの生み出された目的や理由、価値のことです。
例えば、ハサミは「モノを切る」という目的のために生み出された工業製品ですが、そういうものと違って、人間は生きる目的や理由をあらかじめ決められて生まれてくるものじゃないよね、本質、つまり目的や価値や意味に先立って人間は存在しているはずだよね、という発想です。こうした思想が出てきた背景には、大戦後の既存の価値観の崩壊や目的達成の為に犠牲にされた命への反省、生きる寄る辺を喪った人々の人生の不安に光を当てようとする「生きる意味の問い直し」という経緯があります。
実存主義の思想家でもう一人、ハイデガーという人の「投企〔projet〕」という考え方があります。「人間は、常に自己の可能性に向かって自らを未来に投げ出されている」という思想です。つまり、どのように生きるのか、その目的や意味はこの世界に投げ出された時には決定しておらず、未来方向に向かう自分自身に委ねられており、自ら選択し決定して人生の意味や価値を生み出していくのだということです。あらかじめ定められた運命も目的もなく世界に投げ出された人生は一見不安で孤独ですが、その不安に耐えて自ら人生に価値を見出していくのだというポジティブな発想でもあります。
なぜこんな話をしたか。こうした実存主義の発想は、思想史の上では既に過ぎ去った考え方になっていますが、今まさに社会の土台が揺らぎ既存の価値観への問い直しがされている時代にあって、自己実現のために新たな実存としてのVTuberという存在に身を投じている彼らの姿に重なるように感じるのです。彼らの前には既存の価値観、本質はなく、新たな実存である彼ら自身が彼らなりの新たな生き方を模索しながら自己決定していくのです。
ところで、企業はVTuberを営利目的で運用します。これ自体は全く悪いことではなく、企業V全盛の今、私たちはその資本の力の成すところによって様々な楽しみを享受しているのですが、利潤追求のためのVTuber運用という至上目的がいわゆる「魂」の尊厳より先立ってしまった為に引き起こされた不幸、つまり本質が実存に先立ってしまった故の不幸を私たちはこれまで数多く見てきました。VTuberの本質をお金を稼ぐための手段だと考える企業側と、自己実現のためにVTuberという生き方を選んだ「魂」との軋轢が大きくなってしまう故かもしれません。もちろん、どちらの視点も大事なことですが、VTuberという新しい生き方、働き方にはより柔軟なバランス感覚、存在の尊厳への丁寧な配慮が求められるのだと思います。
「実存は本質に先立つ」。VTuberはこうある「べき」だという定義や教条主義、本質主義から解き放たれて、より自由に自己実現する存在として、画面の向こうの彼は彼であり、彼女は彼女であると、我々の目の前に現れる存在をありのまま実存する「存在」として、素直に受け入れられていく土壌が育っていくといいなという期待を込めて、今回この考え方を取り上げてみました。この捉え方もまた一面でしかなく、私のこの論もまたVTuberという存在への解釈に対する自由な議論を妨げる意図のものでもありません。
余談ですが、数年前に、ユヴァル・ノア・ハラリという学者の『サピエンス全史』という本がブームになりました。この本で述べられていることをざっくりと言うと、ホモ・サピエンス(現生人類である我々)は、国家・宗教・貨幣などといった本来実体のないもの、架空のものを集団として信じることのできる脳の働きによって繁栄を遂げたという内容です。つまり共通の「物語」を信じる共同体の力こそが今の我々の世界を作り上げてきた原動力だということですね。吉本隆明の『共同幻想論』にも通じるところがあります。これは、VTuberのブームにも同じことが言えるのではないかと思っていますが、どうでしょうか。
私は、VTuber達の創りだしていく画面の向こうのvirtualな現実をあるものとして素直に信じる人々の、極めて文化的な営みがこれからも希望や可能性を伴って発展していくことを心から願っています。
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