見出し画像

みどりとあか、しろとくろ、そしていろいろ



日記Ⅰ

11月3日。前日の荒天が嘘のように晴れ渡った爽やかな秋の日和。人々が幕張の海辺へと集いつつあるなか、わたしは森林の中にあった。

佐倉のDIC川村美術館がほどなく休館してしまうとの報を受けた時から、千葉へと向かうこの機会を逃してはならないと思っていたからだ。

川村美術館の園内は豊かで、陽を受けてきらめく水辺には羽を休める白鳥。芝生の広場では子どもたちが元気にはしゃぎ回っていた。ベンチに座り持参したサンドイッチを食べていると、わたしの隣に老夫婦が腰掛けてきて、本当になくなるんでしょうか、勿体ないですね、などど言葉を交わした。

「ロスコ・ルーム」は噂どおり圧巻だった。ロスコの作品を飾るためだけに特別に設計された変形七角形の空間で、鑑賞者をぐるりと囲むように展示された7枚の巨大なカンヴァスに塗り付けられた赤褐色の抽象は強烈に私の眼に焼きついた。

企画展の西川勝人の展示は、モノトーンの石膏彫刻が古生物の化石や骨のようで、古代の教会やラビリンスに見立てられた展示空間もユニークだった。どことなく「宝石の国」のようなはるかな時間の堆積を連想させた。

佐倉駅から在来線を2本乗り継いで海浜幕張駅へ。幕張メッセは今年亡くなった建築界の巨匠、槇文彦が手がけた代表的なモダニズム建築。会場に入る際に必ず目に付くあの赤い鉄骨のキャノピーは鳥居をイメージしたものだという。
日常空間から切り離された聖域で、再び怪歌という祝祭がはじまる。


怪歌(再)

いつもの神椿バンドにオーケストラ「神椿フィル=カミフィル」の加わった特別編成で届けられた、今回の神椿幕張戦線。
有機的なストリングスや木管の旋律が加わったアレンジで届けられた楽曲の数々、聞きなれた歌に重厚で新鮮な印象が与えられていました。

まずは「青春の温度」「未観測」と立て続けにシンガロングのある楽曲で会場のボルテージを一気に上げてきました。「糸」、ライブで久しぶりに聞くことが出来て嬉しかった。糸を模したレーザーの演出がカッコいい。
「夜が降り止む前に」、大好きな一曲です。ゆったりと哀愁のあるメロディがオーケストラによって美しく奏でられていて大満足でした。
「海に化ける~人を気取る」のメドレーからの「邂逅」でカンザキイオリ楽曲は一区切り。

「愛のまま」からは『組曲』収録楽曲メインの「歌承曲」ゾーン。以降ゲストが立て続けに登場。
「抱きしめて」、崎山さんのギターにのせてふたりで歌う優しい音楽の世界がとても素敵でした。
ツミキさんの「チューイン・ディスコ」「トウキョウ・シャンディ・ランデヴ」のダンスチューンメドレーは会場を大いに沸かせていましたね。
「一世風靡 」。すいちゃん登場、しかも新曲というインパクトもさることながら、真部脩一作詞作曲だったというのが個人的に嬉しい。花譜ちゃんとすいちゃんふたりともニコニコしながら踊ってたの可愛かったですね。

つづいて恒例のDiscothequeタイム。
観測者の方もそろそろ慣れたもので、揺れる人、休憩する人、座りながらペンライトを振る人。思い思いに時間を過ごしてて自由でいいなと思いました。
後半、犀鳥姿の花譜ちゃん登場。「不埒な喝采」、「フォニィ」を可不ちゃんと楽しく歌っていました。
Moe Shop×バーチャルヒューマンKAFで「notice」のカバーと新曲の「My life」。クールなDJにフロアが沸き上がっていましたね。

「ゲシュタルト」、「アポカリプスより」ではVALIS登場のサプライズでした。花譜ちゃんのミニマルなダンスとVALISのダイナミックなダンス、どちらも好き。
「何者」、“鏡よ鏡”と歌う曲が増えましたね。バーチャルシンガーという立場で常に自分は何者かを自らに問い続けなければならない彼女の心の叫びが垣間見えます。
「カルペ・ディエム」。ラテン語で、メメント・モリと対になる「その日一日を大切に生きろ」という格言。花譜ちゃんの歌うポエトリー大好きです。
「代替嬉々」、鮮烈なタイポグラフィが印象的でした。心に突き刺さってくる歌詞とメロディ、大森靖子さんっぽいなぁ……と思いながら聴いていたら本当にその通りだった。

深化Alternative5、廻花登場。
「ターミナル」、「スタンドバイミー」、「テディベア」、「転校生」。バーチャルシンガーソングライターとして彼女自身の創り上げた楽曲たち。廻花の存在をすでに受け止めた今回はじっくりと彼女の音楽じたいに耳を傾けられました。「テディベア」はギターの弾き語りのライブでの初披露になりましたね。「これはマイクスタンド」とかいう茶番すき。ストラップをかけるときに髪をどかす仕草にドキっとしたのはわたしだけではないはず……。

「東京、ぼくらは大丈夫かな」、東京は人が背景になる街だ、という彼女の言葉が印象的でした。東京での日々の暮らしの中から歌が生まれる程度には時間が経過したんだな、と感慨深いものがあります。大丈夫、ではなく大丈夫かな、と締める歌詞も彼女らしい繊細さが感じられて好きです。
そして、今回のライブも「かいか」でフィナーレ。前回のような緊張も今はほどけて、シンガーソングライター廻花としての彼女の存在が、そして歌が以前よりずっと生き生きと輝いていたように感じた今回のステージでした。

それと印象に残ったことがひとつ。廻花ちゃんのパフォーマンスの際、観測者たちがペンライトを何色にしようか戸惑いながらいろんな色に光らせているのが見えました。

何色にも染まらないシルエットのあなたを、わたしたちは何色で表そうか。


日記Ⅱ

東京行きの新幹線、そして川村美術館までのバスの車中で、一冊の本を読んだ。今年のノーベル文学賞受賞作家、ハン・ガン氏の『すべての、白いものたちの』という作品だ。

おくるみ、しお、雪、骨……「白いもの」の連想からはじまる詩とも小説ともつかないような散文的な短い文章の連なりで紡がれていくのは、「私」と「彼女」というふたりの存在について。

ソウルやワルシャワで生活する「私」=筆者が、生後間もなく亡くなった姉=「彼女」について追想していく。そして「私」は、「彼女」にみずからの身体を差し出すことで姉=「彼女」の目を通して彼女の「生きるはずだった生」が空想的かつ実質的に、つまりvirtualに描き出されていく。

本来あり得ないふたつの生が、文字の上においては存在しうる。ここに文学というもの可能性が込められていて、さすが文学賞を獲る作品だ、と感じた。
この作品を読んでいる間じゅう、今年初めのあの冬の日、代々木でうまれた白と黒ふたつの生に想いを致さずにはいられなかった。


廻る花達と存在論的転“廻”

「花譜」と「廻花」についてわたしが想いを致すとき、「存在論的転回」という文化人類学の現代の潮流が頭によぎります。以下に少し文章を引用します。

「一なる自然と多なる文化という二項対立の放棄」というラトゥールらによって提示された発想を、その学問的伝統である「現地の人々が生きる世界を彼らの視点から捉える(from the native's point of view)」という研究指針といかに接続するかという問いにおいて把握される。
近代科学がもっとも的確に把握しうる現実に存在する世界が一方にあり、他方にそれを認識する異なるやり方(世界観)がある、という既存の設定を批判する存在論的転回においては、彼らが生きる世界を「現実に存在する世界」といかに結びつけていくかが改めて問題となっていく。土台となるのは、彼らが生きる世界は現実に存在する世界を彼らなりの仕方で作りあげていく実践の産物である、という実践論的な発想である。

久保明教『機械カニバリズム』

つまり、わたしたちの捉える「文明的な」、「正しい」自然観や現実に対する認識とは別に、地域や社会によっては私たちと異なる様々な認識や世界観があってその上に様々な文化があるんだな、という私たちの目線から「ではなく」、彼らの目線で実践としてすでにそこに「存在する」彼らの生き方や世界を捉えるということです。

存在論的転回の「転回」とは相対的な認識論(文化相対主義)から個別具体の存在論への転回であり、より深い異文化理解を目指す流れです。

この考えに立ったとき、彼女の「ひとつの生」に対して花譜と廻花という切り離された「ふたつの認識」があると捉えるのはあくまでも私たちの視点であるといえます。今回のMCでも”分裂したかったわけじゃない”と語っていたとおり、彼女の視点に立てば、この6年間の花譜としての積み重ねられた活動の結果として、花譜という実践の帰結としてそこに収まらない廻花という存在が生み出されていく必然がそこにはあったのだと理解できるのではないかと思います。

この彼女なりの現実としての切り離されない「ふたつの生」の歩みをあるがままに受け止めてこれからも応援していきたいな、というのがわたしの素直な気持ちであり、祈りでもあるのです。


あなたの目で眺めると、違って見えた。あなたの体で歩くと、私の歩みは別物になった。私はあなたにきれいなものを見せてあげたかった。残酷さ、悲しみ、絶望、汚れ、苦痛よりも先に、あなたにだけはきれいなものを。でも思うようにいかなかった。ときどき、底知れぬ真っ暗な鏡の中にその姿を求めるように、あなたの目を覗き込んだ。

ハン・ガン, 斎藤真理子=訳『すべての、白いものたちの』

いいなと思ったら応援しよう!