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短編小説 観音様のノート

「もう解散だ!」
大が隆にそう叫んでから、もう1週間になる。

大と隆は高校の頃の同級生で、高校卒業後、芸人の養成所に入り、「花鉄砲」というコンビを組んだ。
日本一の漫才コンビになるという目標を掲げていたものの、最近では賞レースでも1回戦負けか2回戦負けばかりで、この前の漫才バトルグランプリでも、2回戦で敗退し、その発表の帰り道の事だった。

大はどちらかというと、売れたいという願望が強く、分かりやすい笑いを求めていた。
一方、相方の隆は、とんがった笑い、マニアックな笑いを求めるタイプで、これまでも何度となくぶつかってきたのだが、この前、ついにそれが沸点に達してしまったのだった。

大は、今日、10年ぶりに、大船観音にお参りに来ていた。
大船は、大と隆の地元で、二人はここで育った。
大船観音は、そんな二人にとって馴染み深い場所だった。
10年前、漫才コンビを組んだ時に、日本一の漫才コンビになれるように、二人でお参りに行ったのだった。

それから10年、今年で28才になる二人は、依然として鳴かず飛ばずのままだった。
周りの友達は結婚し、会社勤めをして、子供がいる者までいる。
それに比べて二人はバイト暮らしで、給料も少なく、家賃4万の風呂無しアパートに住み、いつもギリギリの生活だった。
早く売れたいと、特に大は焦っていた。
その矢先の出来事だった。

10年ぶりの大船観音は、10年前と変わらず、大に微笑みかけてくれているように感じた。
ふと、看板を見ると、どうやら大船観音の内部に入れるようであった。
10年前には入ったかどうか覚えていないが、大は入ってみる事にした。

中に入ると、小さな大船観音像や、千羽鶴、千体仏等があったが、入り口近くに、観音様にお願いができるノートが置かれていた。
何の気なしに、椅子に座り、そのノートを眺めた。
人々のプライベートな祈りなので、あまりじろじろみるのは憚られたが、つい見ていると、その中に
「高校の頃みたいに、また大と楽しく漫才がしたいです。隆」と書かれているではないか。
これは、ほぼ確実に隆が書いたものだ。
隆も大船観音に来て、これを書いたのだ。
大はしばらくじっとその文字を見つめていた。

高校時代、二人は文化祭で初めて漫才をし、それが割と受けた。
その頃は、売れる、売れない等全く考えず、ただただ楽しんで漫才をしていた。
その後、大は生活の苦しさから、売れるために漫才をする中で、どんどん漫才をする事が楽しくなくなっていた気がする。
そうだ、隆はずっと、楽しく漫才をしたかっただけなのだ。

大は、ノートの脇に置いてあった鉛筆を手に取り、
「隆とずっと楽しく漫才をしたいです。そして、日本一の漫才コンビになりたいです。大」
と書いた。

日本一の漫才コンビとはなんなのか、売れれば日本一なのか、ずっと楽しく漫才ができれば日本一なのか。
その答えはまだ見えなかったが、また、やり直しだ、隆に謝って、また二人で楽しく漫才をやっていこう、駅に戻りながら、そう思った。

大船観音は、そんな大を見守ってくれているように、微笑んでいた。


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