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挫折体験のすり合わせ
「傷つくことを恐れてちゃなにもできない」
「挫折して成長していく」
「挑戦には失敗がつきものだ」
「誰だって経験する」
そういう風潮だ。
俺の体験も人並みだと思っていた。
ここ数年でなんか感じてきた。
俺だけなんか質が違くね?
いや、学生時代から片鱗はあった。
「俺だけできない」
人に言っても
「誰だってあるよ」
「最初のうちはそうだよ」
と言われるが、明らかに質も量も違う。
甘酸っぱい挫折体験なんて言葉ひとつじゃ済まされない。
それは年齢を重ねるにつれて確信に変わっていった。
そして病院で下された診断は《軽度知的障害》。
今までの挫折は知的障害が原因だったのかと納得すればいいのか、バカだからこういう診断になるのか、自分は障害のせいにしようとして挫折から逃げようとしているのか。そもそも知的障害だと仕事の伸びしろや成長などはないのかと、色々考えた。
少なくとも実感は湧かなかった。要領が悪いこと以外、普通に会話もできるし、寮生活もできていたからだ。
しかし要領が悪いということだけにフォーカスを当てると、相当思いあたる節があった。
今まではこれが皆の体験する《挫折》であり《失敗》であり、《普通》であると思っていた。
学生時代から違和感はあったが、自分の努力不足だと思っていた。
社会人になってしばらくしてから「ああ。みんなが言う挫折体験と俺が思う挫折体験は違うな」と悟った。
俺からしたら健常者の挫折なんて挫折にならないよ。
同じ《挫折体験》という言葉だとして、量も質も違うんだから。
いや別にキツい挫折でもいいよ。頑張れば克服できる余地があるならね。
努力しても無駄なんだ。
だって生まれつきの障害なんだもん。
健常者だって空は飛べない。
同じことだ。
解釈が、体験がズレてるなと悟ったのは挫折体験や失敗体験だけじゃない。
努力の定義もだ。
努力不足と見なされる事が多かったが、今となっては人並み以上の努力だったと思う。
ただ、全部無駄になったが。
大人になると周囲とのズレが決定的になり、残酷なまでに突きつけられる。
他の人の定義は、俺に当てはまらない。
なんかこう…今までの時間は何だったんだろう。夢を見ていた気分だ。