知った時点で得ている説
どこからが《得ている》ということなのか。
欲しかったものが手に入らなかった時、人はガッカリする。しかし《欲しいと思っただけ》で、得てはいないのだ。得ていないのにガッカリする。これはつまり脳は勝手に得ているものだと扱っているのだ。
芸能人の結婚でガッカリするのも、よくよく考えればおかしな話だ。最初から自分のものではないのに。
知らぬが仏
悪口は言われていると知った時はじめてショックを受ける。
ブータンもそう。国内にインターネットが普及していなかった頃は幸福度が高かったのに、インターネットが普及するや否や、他の国の生活水準の高さを知り、幸福度が下がったそうだ。井の中の蛙が大海を知った結果だ。
有名人の訃報もそうだ。訃報を知って悲しくなる。訃報を知る元はテレビやネットだ。そもそも有名人を知るきっかけになったのもテレビやネットだ。
SNSのいいね数もそう。ネットは上には上がいるものだと気付かされるツールだ。
欲望や快楽を知れるツールでもあるが、得られない苦しみや失う苦しみも時間差で知ってしまうツールなのだ。
知るということは得るということであるが、失うことでもあると思う。苦しみのマッチポンプというか、長い目で見た苦しみを自らが作っている。
欲望の対象を知らなければ、人は得られないことで苦しむこともない。
今の子供は夢を抱かなくなっという。さとり世代と言われる。その原因はネットの普及にある。SNSを見れば人気や価値は可視化され、格差が明確になった。生まれながらの特別な家庭環境も目に入ってくる。意気込んで始めようと思ったものも、ネットには遥かに上の才能が表示される。
それを目の当たりにすることで、自惚れることすらできない。「どんな奴らがいるんだろう」というワクワク感はゼロだ。井の中の蛙ではいられない時代なのだ。
全て明らかにされる。
ドラマのネタバレ、ゲームの攻略、海外の場所、超常現象の正体…ほとんど全てが否応なしに流れ込んでくる。
インターネットは欲望の対象と、自分の無力さを同時に突き付けられるので、苦しみしか生まない。
そして一度知ってしまうと、機械のように初期化できない。野生のライオンにタレ付き焼肉を食べさせたら、もう生肉では満足できないと思う。スマートフォンを知った人間も、もうガラケーには戻れない。高度経済成長時代のような公衆電話など以ての外だ。
僕の経験だとゲームだ。
昔はプレイステーション2で満足できたが、プレイステーション5に慣れてからプレイステーション2をやろうとすると、荒さが気になってやれたものじゃないと感じてしまう。
どこからが自分のものなのか
最初に、《芸能人の結婚で失った感覚になる》と書いたが、この感覚になるということは、それまでその芸能人を自分の所有物だと思っていた節があるということだ。
これは訃報にも言える。
知っている芸能人が亡くなったことを知ると、失った感覚になる。家族でもないのに。というか家族は自分の中では所有物という扱いなのだろうか。
《手に入れている》《所有物として見なしている》とはどういう状態なのか。
買った物は得ていると言える。入手しているし、物だからだ。
しかし友達という概念は得ていると言えるのか。物ではないし曖昧な関係だ。失うとか、自分のものじゃなくなる瞬間というのはどのタイミングなのだろうか。
そして知識を得るとも言うが、経験も得ると言う。経験も脳で知覚しているという意味では《知っている》のだ。
知識は自分のものだ。
そしてインプットされているという意味では得ている。
他者が何かを得ているという知識も知る(得る)。しかしそれは自分にとって得ではない(失っている状態と似ている)なので嫉妬することもある。
SNSではこれが多発する。
得ている=得をしている ではない。
嫉妬が嫌でSNSをやめる人もいる。
何をもって失うのか
記憶喪失は失っているのか。
《失っている》ということを知らないので、失っていることにはならない。
失うとはなにか。
失う時とはどんな時か。
やはり知った時だろう。知った時にはじめて失ったと感じる。
陰口を言われていても、人伝などで教えられない限り、ショックは受けない。失ったとは思わないのだ。
そして例えばだが、実はボッタクられているという事実があったとして、本人はそれを知っていなければ、損をしている(失っている)とは思わない。しかしその前段階において、お金という知識を得ているので、それが損得の不幸に繋がっていると言える。
悪口も元を辿ると、悪口という概念と意味を得ている(知っている)ところから始まっている。
知るということは不幸の元であり、時間差の不幸とも解釈できる。
現代人は知る機会が増えた。やはりネットが大きい。
知る機会が増えたなら、失う機会も増えることになる。
ネットを通じて知る人間が多いなら、ネットを通じて失う人間も多い。日々新しい人間を知り(得て)、日々知っている人間が死んで(失って)いく。
《得る》ことには段階がある
その対象を認識するのが全ての始まりだ。そこから「欲しい!」と思うわけだが、この時点で僕の理論では得ている扱いとする。
知っている人が死ぬことを知るのと、知らない人が死ぬことを知るのとでは《喪失》のダメージが違う。ましてや親密な関係になったならなおさらだ。そしてそれは時間に比例する。親が子に愛着を感じるのは、生まれた時から一緒だからだ。
知る→得る→付加価値が時間に比例して付く
そして失う苦しみも得た段階に比例する。
訃報ひとつとっても
知らない人→テレビで見たことある人→知り合い→友達→家族
でショック度合いが変わる。
愛着度はただ時間を共にしただけでは上がらないこともある。下がることもある。
ただ好きなものは時間に比例する。
しかし時間をおいたりすると、愛着度が減ることもある。飽きや価値観の変化というやつだ。
ネットとの向き合い方
インターネットはパンドラの箱だ。
知るという不幸を誘発させるものという視点においては百害あって一利なしだ。
街ではスマホやタブレットを親に与えられている子供を結構目にするが、小さい頃から《知る》ことが多いと、「どうせ上には上がいるしな」とか「こんな夢抱いても無理だ」という価値観を抱くような、ドライ人間になりそうだ。
僕の子供時代が楽しかったのは、インターネットがあまり普及していなかったというのが大きい。
Googleアースがないから現地に赴く。
動画なんてないからLIVEに足を運ぶ。
証拠がないから妖怪だと思う。
先進国が神や幽霊、UMA、妖怪などを信じられないのは、インターネットの普及が大きいのだ。
世界が繋がっているせいで、明らかになっていないものが少なくなったのだ。明らかになっていないにしても深海や宇宙だけで、人類は地球をもうほとんど探索し尽くした。
そしてインターネットに触れ慣れると、ちょっとやそっとの刺激では満足できなくなる脳が完成する。
もうDS Lightのピクトチャットやパーティーグッズのトランシーバーでは楽しめない。
知ることは不幸
知ることは賢くなることだが、幸せではない。
子供時代が楽しかったのは、無知だったからだ。
大人になるにつれて知識が増えていくが、それは冷めることに繋がる。そして不幸に繋がる。
知るという入手物がなければ、失うこともない。
生まれてから一度も親しい人間を作らなかった(知らなかった)人間は、誰が何人死んだことを知ろうが、失ったとは思わない。