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[小説]『リストカット』
遥か昔のこと。
私は、苦しみの中にいる女性に出会ったことがある。
彼女の名前なんてどうでもいいだろう。
きっと、どこにだって存在している。
今日みたいな秋の日のこと。
その日の夕焼けは、酷く赤く見えた。
彼女は、季節感を省みることもなく、よく長袖に腕を通していたことを覚えている。
私はその疑問を口にする事はなかったが、何故か彼女の方から私に伝えてくれたことがあった。
駅のホームで、さも雑談みたいに軽々しく語られたことを覚えている。
今日飲まなきゃいけない薬を忘れたとか。
気づいたら傷の量が増えているんだとか。
その腕を見たこともある。
袖を捲った彼女の腕は、頼りない絆創膏に守られていた。
私は、彼女のことを理解出来なかった。
どうして自らを傷つけるんだろうと、ずっと思っていた。
理解出来なくて当然だ。
彼女と同じような経験を、私がしてこなかったんだ。
それに。
家庭環境だって。
受けた愛の数だって。
考えることだって違うんだ。
あの時、私は。
彼女を分かってあげることが、出来なかった。
寄り添ってあげられなかった。
そのことに、負い目がなかった訳ではない。
けれど。
彼女と同じところに沈もうとする、私の心が耐えられなかったのだ。
その辺りで、私が助けられる人間には限りがあるのを理解した。
それでも。
話すことで、少しだけ分かったことがあった。
どうしようもない苦しみの中で、それでも足掻きながら生きているのは自分だけじゃないこと。
そして。
その上で。
私は恵まれているという事実を。
親とも姉弟との関係も良好だし。
ほぼ毎日、昼食にはお弁当を持たせて貰えていた。
それでも満たされない私より、遥かに苦しんでいたことだろう。
一緒に購買に行ったこともあった。
私がお弁当に手を伸ばす中で。
彼女は確か、ミルクティーと菓子パンだけを買っていたっけ。
少なくとも、私よりは食が細かったはずだ。
ああ。
どれもこれも、懐かしい思い出だ。
思い出を綴るほどに、私の夜は更けていく。
そうだ。
彼女についてだが、もう一つ覚えていることがある。
それは、常に独りになることに怯えていたことだ。
私といる時は、何故だか私から離れなかったし。
友人といる時も、友人から離れてなかった気がした。
独りでプラットホームにいる時は、誰かと電話しながら電車を待っていたっけ。
理由は知らないが。
こんなところも、私とは違うところだった。
それでも。
美しい短髪に、知的な眼鏡。
ふと見せる横顔が、とても鮮やかで。
いつも他人のことを思いやって。
とても素敵な人だった。
それなのに。
他人を信じてなかったし。
何故か自分のことを諦めていた。
正直なところ、そんな生き方はもったいないとすら思っていた。
だからこそ。
彼女の心に巣食う夜が、いつかは晴れて欲しいと本気で願っていた。
その日が来る可能性は、限りなく低いことに目を瞑りながら。
ああ。
お風呂場。
自室。
今もどこかで。
カミソリで。
愛用しているカッターで。
肌が裂かれ、血が流れていく。
見えない場所が壊れていく。
本当は。
私達には止める権利も、止める理由もないけれど。
それでも。
誰かが貴方を心配しているのだろう。
だからこそ。
どれだけ親に怒られても。
彼氏に脅されても。
それが一種の愛であるとして、受け止めた方がいいのだろうと、私は思ったんだ。