雑記「何故について考える」
⚠️注意事項
この記事では、大体が適当な事を言ってるだけだったりします。なので、話し半分に聞いてくれると幸いです。
「何故について考える」
「何でそれをしようと思ったの?」
「何に悩んでいるの?」
大人に近づいていく中で、「何故」を聞かれることが増えてきた。
それはそうだ。
相手に私の意図など分かる筈がない。
それはなぜか。
理由を言葉にしなければ、自分だって分からないからだ。
だからこそ、私は誰かに「何故」を聞かれることが苦痛だった。
今ではかろうじて、答えを出せるようになってきた気がするけれど……
以前、自分の行動が「何故」行われるのか、考えてみたことがある。
その結果、大抵は「やってみたいと思った」というのが行動の理由であると分かった。
私は、そういう人間であったのだ。
「たいした理由なんてなくても、行動が出来る。」
これは長所でもあり、同時に短所でもある。
「やりたいと思ったことを必ず実行に移せる。」
これが長所で。
「理由がないから、気まぐれにそれを辞めようと思ってしまう。」
これが短所なのだ。
だからこそだ。
それに気づいていなかった高校時代の自分は、「何故」と聞かれるのが苦痛だったのだろう。
答えなんて出せず、口ごもってしまうから。
一部の人は、そういった人が気に食わないと思うこともしばしばあるらしい。
そういえば。
以前、姉とこんなことを話した。
旅行についての話だった。
「例えばさ、旅行の計画は立てたりしないの?」
それに対して、私はこう言った。
「行くところには目星こそつけるが、計画などは立てず、自由に観光するのが好きだ」と。
そうすると姉は、気に食わないと言ったような態度で、こう言い返す。
「私は、旅行前にはある程度の計画を立てないと旅行できないんだよね。」
「さっき自由に観光したいとか言ってたけど、それは私も同じだよ。」
「計画の中で、そこに行く理由も考えた上で、時間管理をしっかりとするの。」
「その上で、好きに行動する。私ならそうするな。」
なるほどと思った。
そして、姉はこう続ける。
「だから、計画を立てて旅行しないルーズな人は、本当に旅行楽しみなのかなと思う----」
この話を今振り返り、改めて思うことがある。
彼女には「何故」が明確にある。
それは、いつもの行動ひとつとってもそうであったし。
旅行一つとってもそうだった。
「何故」ここに旅行に行くのか。
「何故」この観光地に行くのか。
きちんとした理由がないと、他人の行動に納得することができないのだろう。
私はただ「行ってみたかったから」というフワッとしたものしかない。
私は、ノープランな心の熱に従うだけ。
彼女は、理詰めに明確な理由をきっちりと立てる。
イレギュラーを嫌う彼女と。
冒険を楽しむ自分。
どちらの立場も正しいだろう。
また、どちらの立場も正しくない時がある。
何事もそうだろう。
確かに、理由があるということは大切だ。
なぜならば、時折「理由」が心の支えになってくれるからだ。
ふんわりとした理由だけでは、耐えられないことなど、世の中には腐るほどある。
その「耐えられない」というのにも色々とある。
それは知的好奇心だったり、会社に勤めたり、稽古などの下積みを耐えるにあたってのことだったりと色々だ。
だからこそ。
「何故」を重要視して、深く追求する人間もいる。
だが、世の中には深く考えるのが得意ではない人もいる。
私と同じ詰問をぶつけられた時、苦笑いでそれを回避する人だっている。
こう言う時に質問へ答えられなかったりするからこそ、常に「理由」を考え続けるべきだ。
と、思う人もいるだろう。
だが、深く考えない人間の長所はそこではない。
「とにかくやってみよー!」
「やればきっとなんとかなる!」
根拠のない行動や自信が、人生でプラスに働くこともあるのだ。
「何故」を深く追求する人に問いたい。
「何故」を深く追求するために、立ち止まっても本当によいのだろうか。
その瞬間、大切なチャンスを逃したりはしていないだろうか。
今一度よく考えて欲しい。
彼らの長所を。
また、下らないことを聞くようだが、貴方は他人にそんな言葉を向けてはいないだろうか。
あんまりにも答えが返ってこないようであれば、一歩引いてあげる優しさくらいはあってもいいのではないかと、私は思う。
逆に、あまり深く考えるのが得意でない人も、「理由」を探ってみると、何かの助けになることもあると思う。
かつての私のように。
件の詰問は苦しくはあったが、同時に「何故」を考える決定的なヒントにも繋がっていた。
今の私なら、行動に理由がつけられる。
例えば。
「何故、noteにこんな雑記やら、詩やら投稿するのか。」という問いがあるとするなら。
「書くことで、私のような人間を救いたい」と。
けれど。
根底にあるのは、やはりシンプルなものだ。
それは。
「書くことが、どうしようもなく楽しいから」
「私の書くことが、誰かのためになれば嬉しいから」
そんなもんだ。
「何故、そうするのか。」
「何故、そうなるのか。」
それを考えることも、物凄く大事だけど。
たまには、心に従うだけでもよいのではないだろうか。
そうしてみると、楽になることもある。
そして。
私の方は、これから少しずつ「何故」を明確にしていこうと思う。
それだって、彼らの明確な長所で。
私にとっての、憧れだから。
雑記の意味
追記:「何故」を武器にすることについて。
(⚠️呪術廻戦18巻の内容が説明に含まれます。その為、まだ読んでない人は飛ばすことをオススメします。)
そういえばだが、他人に納得して貰うために何故について……つまりは「理由」を使うこともあるだろうと思った。
確かに、それであれば社会に生きる上で、「何故」というものはかなり重要だろう。
だかしかし。
何かを説得する時、他人に納得してもらうルートはもう一つある。
それは「熱」だ。
先ほどからちょくちょく出す、私の「理由」らしきものだ。
その「熱」については、私よりこれを語るのに適任な男が存在する。
それは、呪術廻戦に登場する「秤金次」という男だ。
その理由を、彼は下記のように語っている。
秤曰く、だからこそ「俺は"熱"を愛している。」とのことらしい。
この雑記を書くにあたって、呪術廻戦18巻を自宅の本棚から引っ張り出して読んでみたが、改めてみても、この言説は巧みなものがあると感じる。
この後も彼の言説は続いていくのだが、彼なりに「熱」の重要性を説いていて、説得力が高い。
そして。
敵であるこの男を説き伏せ、仲間に引き入れたのが、主人公虎杖の"熱"であったのだ。
うだうだと長ったらしく説明してしまったが、要はこのシーンを通して説明したかったことがある。
長々と理由を語ることをせずとも、「熱意」を通すことで、人間は納得することがあるということを。
実際にこのシーンの虎杖の目を見て、虎杖の理論こそ分からずとも、虎杖の「熱意」を気に入り「納得してしまう」人間は、読者にも一定数いるだろうと思われる。
かくいう、私もその一人だ。
初めてこの話を読んだ時、虎杖の理論が人間から逸脱していて、悲しみを感じてしまった。
だが。
少年漫画らしい「熱」を感じて、その熱に「納得」してしまった。
私はというと、あまり賢い方ではないし。
いちいち理由を考える方でもない。
けれど、好きなことに対しては。
やろうと思ったことに関しては。
少なくとも「熱」を持っている。
だから、せめて。
虎杖君のように。
私の物事に向き合う「熱」は伝えられたらいいなと思う。
伝わっていればいいなと思う。
引用:『呪術廻戦』芥見下々(2021) 集英社