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クラスの中、あるいは学校の中で気になる異性の方がおられる生徒諸君。江戸時代の恋愛について少し話をしてみます。「恋愛から結婚へ」そんな流れは江戸にもあったのでしょうか。好きな人と結ばれたい。その気持ちは今も昔も同じでしょう。江戸時代には、好きな人と結ばれるために、惚れ薬といわれていた「イモリの黒焼き」がありました。好きな人と結婚したくてもできない厳しい制度に阻まれることも多かったようです。すこし危ない内容がありますのでご注意を。


イモリの黒焼き

について、まずお話しします。なぜ惚れ薬として知られているのか。中国からの伝承です。中央に節のある竹筒の左右に、いもりの雌雄のペアをそれぞれ入れて封じこめると、竹の節を食い破って一緒になろうとするという話である。真偽は不明。相手に気づかれないように、その女性の肌着に忍ばせておけば、あるいは粉にして相手に振りかける、イモリの酒を飲ませる、あら不思議、相手に恋心が生まれるという仕掛けである。

結婚の形から考えます。

結婚は「同じ身分の人としか出来ない」というのが原則です。武家や商家では、特に同じ階層であるもの同士の結婚が重視されます。結婚相手は自分では選べません。武家なら上役や親が相手を選定します。結婚は親からの命令でした。

 そんな制度ですので、自由恋愛に対する幕府や親の監視や処置も厳しく、縁談の決まった娘に手を出した男は江戸を追放されました。捕まれば女性は丸坊主にされて親元へ引き渡されました。適齢期は十歳から十九歳頃まででした。自由な恋愛はできない時代でしたが、好きな相手が出来てしまうのは今の諸君と同じでした。

 

ラブレターは「付文(つけぶみ)」です。

知り合いを通して渡すか、娘の袖の袂へ投げ込みます。相手から返信があれば成功。その後、文通を続けます。

「つれなさに 思ひはなほも まさるなり ひつかきおくる 言の葉もがな」


つれなさに(連れ無し・形容詞・相手が冷たいので)なほも(やはり、いよいよ) まさるなり(なり・断定) ひつかき(まさる・猿・引っかく・筆書く・相手の心を動かすような言葉を書き綴る) 言の葉もがな(もがな・願望の終助詞・があるといいなあ)

「よごしても ひたしものでも 根から葉から 食うてもきかぬ 恋忘れ草」


よごしても(よごす・和え物にする)浸し物でも(恋の辛さを忘れようと思って、忘れ草をあえ物にして食べたり、浸し物にして食べても)食うてもきかぬ(効く・効果がある・ず・打消・連体形・さっぱり効かず思いはつのるばかり)

『誰かと会っている』そんなうわさを立てられると、縁談にも響くので、親は二十四時間監視を続けます。カップルで手をつないで歩く、とんでもない話です。外を歩くときは必ず親、奉公人と一緒です。マクドで食事もできません。こっそり会うのは「密会」です。料理茶屋、裏稼業の水茶屋、夜の暗がりがその場所です。芝居町には裏通りに「うら茶屋」と呼ばれる出会い茶屋が多くあったそうです。芝居見物と称しての密会ですね。

「村出合 二八をしめる そば畑」


 デートを出合いと言いました。ラブホテルは出合茶屋ですが、茶屋のない田舎の若者は野良出合と言い麦畑が多かったようです。

「女中さま 先刻からと 出合茶屋」


 出合茶屋に行く女性は季節の花柄の着物を重ね着します。色柄を見せるおしゃれです。地面に袂が付きそうな長い振り袖姿。やるねえ。髪飾りは花かんざしや、赤い布飾りやくしを挿し、かわいい自分を演出しています。男性は絹の上等なしま柄の服、髷もきちんと結いあげて、煙草入れ(たばこいれ)を持って粋な男を演出します。

水茶屋「水茶屋の娘の顔でくだす腹」


「水茶屋も 一本くべて 縫ってゐる さびしさうなり さびしさうなり」


一本くべて(薪が一本だけ火をつけられ細い煙がたちのぼる)いつもは賑やかに客を呼んでいる茶店の娘。初冬の頃で、参詣の客も少なく、暇つぶしに縫い物をしている)

 水茶屋は今の喫茶店だが、看板娘がいたところが多い。寺社の境内や路傍で茶を出し休息させた。葉の茶を売る葉茶屋と区別するため水茶屋と言った。たばこ盆も置かれており、だんごや餅を売り物にする店もあった。後に酒や食事を出すようになり「料理茶屋」となった。また「色茶屋」として、女性がいて相手をする遊興的色彩を強めていく店も多かった。料理茶屋の中から貸席専業の「待合茶屋」や男女のラブホテルとなる「出合茶屋」が現れた。また、歌舞伎劇場には「芝居茶屋」、相撲小屋には「相撲茶屋」が出来てきた。初めはヨシズ張りの粗末なものだったが市内で家屋を構えた店が宝暦年間に現れる。

「不忍の茶屋で 忍んだことをする」
「夕立の 濁りに染むは いやいやと 蓮はかぶりを ふる池の中」


濁りに染むは(濁り水に染まるのはいやだと言うように)蓮はかぶりを ふる(風に吹かれて頭を振っている)

 「蓮」と言えば、鎌倉八幡宮の横の池も有名だが、江戸時代、蓮と言えば上野不忍池の蓮だろう。花の咲く頃には、まだ暗い内から見物客が大勢訪れたという。見渡し三、四町、長さ五、七町(一町は109㍍)あったそうで、この池の畔の弁天堂へ行く道には茶屋が並んでいたそうな。池に突き出て建てられている池の茶屋は「蓮茶屋・池の茶屋・蓮池院」。出合茶屋であり、今で言うラブホテルである。これとは関係ないが、「尻軽なすれからしな女性」のことを「はすっぱ・蓮葉」と呼ぶ。

余談ですが 「留守居茶屋」という茶屋もありました。ドラマ等でご存じかと思いますが「留守居役」というのは江戸に常駐して、日常から幕府や他藩との連絡、情報交換をする役職です。そのために高級料亭や吉原などで参会することが増え、こうした茶屋は「留守居茶屋」と称されました。情報交換を名目とした豪遊、浪費は酷いものであり時代劇のドラマでは遠山の金さんがよく出てくる場所でもあります。今も赤坂の料亭では・・。
 

「たがひに 命捨ててする 出会い茶屋 こわいことかな こわいことかな」


命捨てて(不倫がばれたら、すぐに死罪。危険を覚悟してでも会いたい二人)こわいことかな(危ないなあ)

「身あがりに きのふも逢ひし ゆめ人の ほんに見えたら うつつぬかさん」


身あがりに(遊女が恋人に会いたくて、自分で料金を負担して恋人が会いに来るのを待っている) きのふも逢ひし(逢ふ・き・過去・連体形) ゆめ人の(恋人と逢う夢を見たが) ほんに見えたら うつつぬかさん(うつつ・現実・うつつぬかす・正気をなくす・む・推量・本当に逢えたならかえって夢のような気がするだろう)

よくドラマに出てくる絵島生島「蒸し暑うござりましたと新五郎」
 不自由な大奥の生活に飽きたのか、大奥の老女「絵島」が山村座のスター「生島新五郎」と不義密通をしでかし、事件になっている。新五郎さんは呉服屋の長持ちに隠れて大奥まで運び込まれた。いや饅頭の蒸籠に隠れていたとか言われている。

離婚事情  

鎌倉の東慶寺「地女の年明けを待つ松が丘」


 「かけこんで その夜は寝ずに 松が丘」

(不安でその夜は寝つかれない)
 江戸時代には、離婚となると男性の方の単独行為とされ、一方的に離縁状を書いて、妻もしくは妻の父母に渡した。もっとも勝手な一方的離婚の場合には相当量の金銭を妻に持たせなければならず、事実上、夫婦生活が破綻していても関係を続けていることが多い。
女性の側からの離婚は困難である。そこで逃げ込むことによって離婚が達成される尼寺があった。鎌倉の松が丘の東慶寺という尼寺である。この寺で三年間生活出来れば離婚が正式に成立したのだ。その間、髪の毛は剃らなくて良い。十三里(心魂にてつして嫁は十三里)「栗よりうまい十三里芋」は九里四里の洒落であるが、当時、江戸と鎌倉は十三里あったとされる。

  
離縁状・三行半・みくだりはん・切れ文

「質屋から 切れ文が来る えらいこと」


 奈良時代、女性のもとに男性が通う形から婿入婚に変化する過程で、「夫からの一方的な離婚の際に七出之状と呼ばれる文書があった。この「七」を半分に割ったので三行り半と呼ばれる。または婚姻の際に妻の親元が出す婚姻許可状・誓約書が七行の文書であった。その半分である。」等の起源があるようだ。江戸時代には「去状(さりじょう)暇状(いとまじょう)」が離縁状とされ三行半で書くのが庶民の間で決まりとなっていたようである。ウィキペディアには

「深く厚いと思った宿縁は、実は浅く薄かったのです。双方の責によるところではありません。後日、他へ嫁ぐことになろうとも、一切異議無く、前言を撤回することはありません。以上。」

と言った手紙文の例があげられている。

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