人生は、どの瞬間も美しい。
先日、「コーチの倫理と美意識」という連続講座に参加した。
とてもとても良かった。
2部構成になっている「美意識」の講座は、この問いから始まった。
問われてまず思い出したのは、去年七里ヶ浜の海に助けられたこと。
今年、富士山の雄大さにとても元気をもらったこと。
それから、もう10年くらい前になるが、働き詰めでイタリアへ無理して旅行に行ったら、ホテルに着いた瞬間に強烈な蕁麻疹に襲われ、3日間現地で寝込んだことがあった。復帰してようやく行けたヴェネツィアでゴンドラに乗っていたら、水の都のあまりの美しさに涙が出た。
美によって救われた体験は、誰もが持っているのではないだろうか。
人によって美しく思うものは違うだろうが、私の場合は自然の中に身を置いた時に感じるようだ。
講座の中の対話で、「じゃあ人間をコンクリートの空間に閉じ込めたとしても、人は美しさを感じることはできるのか?」という話になった(極端)
やっぱりそれは難しいんじゃないか…と答えかけた瞬間、V.E.フランクルの「夜と霧」が私の脳裏を駆け巡り、頭を打たれたような感覚になった。
そうだ、人間には、たとえ強制収容所の中ですらも、理不尽に家族や友人の命を奪われ続ける中でも、そこにある夕焼けを美しいと思う力があるのだ。
人間には、美しさを感じて、味わい、そこから人生に意味を見出す力がある。
すごい!
また、講座の中で思い出した詩があった。
「国破れて山河あり。」
杜甫の詩。
これも今の私に刺さる。
どんなに戦で国が荒廃しようとも、人々が亡くなろうとも、山々や河や自然は、ただただそこにあり続け、美しいのだ。
この講座では、事前のワークがあった。
今実家に戻っている私にとっては、やはりこの家は「実家」感が拭えない。好きなインテリアや雑貨を並べてはいないし、特段おしゃれな街でもない。
だから、カフェや自分で描いた絵の写真なども混ぜて、なんとか5枚の写真を用意した。
ワークを通して気づいたのは、この5枚のコレクションは、私の日々の瞬間の記録だということ。
「生きる、暮らし、時間。」というタイトルをつけた瞬間、自分の人生がとても愛おしくなった。
味覚だったり、香りのするアロマだったり、クレパスで指を使って描いた絵だったり、大切な人に教えてもらったアイテムだったり、誰かと共に食卓を共にした瞬間だったりしているこのコレクションを通して、私は、人の温もりと共にある自分の人生を美しいと思っていることに気づいた。
そして、それがとても嬉しかった。
気づいたら、世界が変わる。
気づきは、いつも私の人生を動かす。
私の人生が美しいということは、誰のどんな人生も、どの瞬間も美しいということ。
それを伝えたいと強く思った。
私は日本が好きなので、日本の四季を通した美しさも伝えたい。
私らしい表現で、いろいろな人に知って欲しい。ひとりひとりが、自分の人生の美しさに気づき、知り、味わって欲しい。
人生には楽しいだけではなく、つらい時も悲しい時もある。長く続く苦しみの中で、光が見えないこともある。
それでも、どの瞬間にも美しさはあり、私たちの胸を打つ。私たちはそれを味わいたくてこの地球で生きているのだと思う。
そんなことを思いながら、また新たな自分の生き方、物語がはじまっていることに気づいていた。
あなたが美しいと思うものは、何ですか?
あなたの人生の中にある美しさは、何ですか?
それのどこを美しいと思いますか?
もしも今、自分の人生を美しく思えていなかったとしたら。
フランクルのことを思い出して欲しい。
絶望的なアウシュビッツの中でも、人間としての尊厳と自由を奪われた中でさえも、私たちは美しさを感じて人生に意味を見出す力を持っている。
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この問いと深く向き合いたい方へ。
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私の、他にも「自宅半径500メートル以内」で美しいと思ったものたち。
近所に咲く花たちを、こんなに意識して歩いたことはなかった。
気づくだけで、人生はすでに美しい。