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社会科学と客観性          

①偏見に囚われる人々

本書が欧米の歴史に重きをおいていないことに愕然とした、世界的に著名なアメリカ人の歴史学者は、「逆転の世界史」と題する評論を本書に対して寄せた。 (「日本語版への序文」より)

ジャレド・ダイアモンド   倉骨彰=訳 『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫)


アメリカの進化生物学者でノンフィクション作家のジャレド・ダイアモンド氏のベストセラー『銃・病原菌・鉄』の「日本語版への序文」より

この一節は、いまだにユーロ・セントリズム(ヨーロッパ中心主義)の考え方が、ヨーロッパ人の中に根強く残っていることを示すよい例です。このようなヨーロッパ中心的な史観は、大航海時代や産業革命、帝国主義の台頭などを通じて欧州圏内で徐々に形成されていきました。

ヨーロッパ中心的な考え方は日本にも少なからず影響しています。たとえば、世界史の教科書を開けば、いまだにヨーロッパに関する記述が多くを占めますし、読者の中にも「世界史=ヨーロッパ」というイメージを持つ方がいるかもしれません。

これと似たような考え方は中国でも見られます。中国では、伝統的に自分の国が世界の中心であるという認識が強くあります。中華人民共和国の「中華」が”世界の中央にある文明の地”東京都立図書館)という意味であることからも、これは明らかでしょう。

②社会科学と客観性

さて、これらの事実から私が何を伝えたいのかというと、私たちはみな、歴史学を始めとする社会科学(政治学や経済学など)の分野において、何らかのバイアスがかかった状態にあるということです。言い方を変えると、社会科学において真に客観的な立場などというものは存在しません。なぜなら、社会科学が研究の対象とするのは社会であり、その社会とは特定の価値判断基準(時代背景や国家の性格、文化など)の内部に存立するものだからです。

さて、「社会科学の非客観性」ともいうべき事実を自覚した今、私たちは社会科学に対してどのような姿勢で臨めばよいのでしょうか。このことについて重要な示唆を与えてくれるのが、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーです。

彼は、まず、この社会科学が客観的ではないという事実を知ってなお、純粋な客観主義を志向する態度を批判しています。さきほど社会は特定の価値の中に存在するといいましたが、それは社会の中にいる私たち自身もそのようないわば価値の檻の中に囚われた状態にあることを意味します。真に客観的たることが不可能なことは明らかでしょう。

③価値自由

ではどうすればよいのでしょうか。ここでヴェーバーが主張したのが価値自由ヴェルトフライハイトです。

価値自由とは、自分がいかなる価値判断に影響を受けているのか自覚すべきであるという社会科学の方法論のひとつです。ヴェーバーは前述の通り、社会科学の領域において客観主義を実践することは不可能だと考えていたので、ならばせめて自分に影響を及ぼすものー家族や交友関係、所属する共同体コミュニティなどーについて自覚的であることが重要だと考えたのです。

もともとこれは社会科学を研究する人々へ向けられた言葉ですが、私たちのような学習者にとっても意義深いものです。

たとえば、よく歴史に客観性を求める声が聞かれます。しかし、前述のように真に客観的な歴史などというものは存在し得ません。そもそも歴史自体が特定の価値判断を必要とするものであることに加えて、ワードチョイスや情報の比重のかけ方にも個人の恣意性は宿ります。また、学者のバックグラウンド(出身地・育った環境・師事した学者など)によっても、同じ事象を扱っても見解は異なるでしょう。これは、どちらかが間違っているのでありません。依拠する価値基準の相違によってもたらされる結果なのです。これを社会科学の用語で「知の不確実性」と呼びます。


つまり誤解を恐れずにいえば、歴史学に客観性を追求することは無意味です。大事なのは、彼らがどのような価値基準に「囚われて」その論文、ないしは本(教科書)を執筆したのかということです。

不確実性の中で、その時代の最高の知性が積み上げた学問、それが社会科学なのです。