「報われ」なくてもいいじゃないっすか
さて、「あれだけやったのに報われなかった」と思うことがあるのは悪いことではありません。
むしろ、懸命に努力したのであれば、ごく自然なことであるとも言えます。
ただ、教育について言えば、この「報われる」を追うと、苦しくなります。
その理由は簡単です。
教育において、教師が児童生徒に対して働きかけた指導、支援が成果として出るまで時間がかかることが多いからです。
特に、「本当に努力した!」と言えるくらい、気合を入れて、ある教育実践に取り組む場合、より成果が出にくいという事実があります。
例を一つ。
退学者が学年の5分の1は出る高校があったとします。
この現状を変えるために、学年、学校をあげて努力したとしましょう。
◆生徒の自己肯定感を高めるホームルーム活動
◆在り方・生き方を学ぶゲストティーチャー
◆資格取得のための放課後、休日補習
などなど。
こんなのは、ほんの触りの部分です。
このような取り組みを始めて、何日で生徒たちは変わるでしょうか。
やる気を出して、高校での学習、学校行事、部活動などに意義を見出すにはどれくらいの期間が必要でしょうか。
はい。
年単位が普通ですねですね。
もしかしたら、指導に乗った生徒の中には、3年間で一つの資格も取れない者もいるかもしれません。
さて、この場合、教師の指導は「報われなかった」のでしょうか。
そんなことはないと思います。
ただ、「報われた」ということもできないかもしれません。
事実として、
・資格を取得できなかった生徒もいた
・資格は取れなかった生徒も、補習に勤しんだ
・退学者が1割減少した
・それでも、退学者がいる
このような事実を見るだけでは、「報われたかどうか」を判断するのは困難です。
よって、「報われたか報われていないか」という評価基準が合わないのです。
大切なことは以下のことだと考えます。
・生徒たちに心の変化が見られたのは事実
・社会に出て、高校時代の努力が糧となり、人生の苦難を乗り越える姿勢をもつ生徒もいるであろう
・学校が変わり始めたのを見て、これまでと違ったタイプの新入生が来ることが期待できる
・あと数年で、退学者を一桁まで減らすことも期待できる
以上のように、教師の行動が積み重なり、確実に「変化」を起こしました。
そうです。
教師の仕事は、絶えず児童生徒にアプローチして変化を促すことだと思います。
その変化がはっきりとした形になるのは、年単位。十年単位かもしれません。
それでも、その高校での生活のおかげで人生が変わるのだとしたら、
それはもう万歳ものです^^
まとめると、
➀「報われる」ことを期待する必要はないし、日常生活の「報われる」感覚は、教師として味わえないかもしれない。
➁しかし、少しずつ変化していく児童生徒の姿に未来を見て、「喜び」をかみしめることはできる。
この「喜び」こそが教師のやりがいの一つであると言えるのではないでしょうか。
先生方、今日も「喜び」をかみしめて頑張ってください!
応援しています。