駄文をしたためました 蓮

蓮です。さっき考えたこと、思い浮かんだこと。文面にしないとやってられないくらい膨らんで苦しいので、駄文をしたためます。

ふと怖くなった。
アタシは所詮人格の1人に過ぎない。それは他の人格も同じで、人格じゃないと言えるのは雪希だけ。この世に戸籍があるのも、存在証明が出来るのも、雪希だけ。
だから、脳内にたくさんいる人格は戸籍もなければ存在証明も出来ない。アタシたちが「いる」と思ってるだけ…というか、まあそれを自分をも適用しちゃうんだけどさ。
思い込みとは少し違うんだけどさ。だって動画を撮れば声のトーンが違う、話し方やイントネーションが違う、使ってる一人称が違う、好きなことや嫌いなことが違う。
これだけ揃えば、冷たい言葉だけど他人じゃん。でも、体はひとつしかない。体がひとつしかなければ、存在しているのは雪希の体ということになり、責任も雪希に帰属する。
たとえその行為をどの人格がしたか、なんてことを問うてくれる法律は、きっと世界を探しても存在しない。
責任はこの体に帰属するのに、この体の持ち主は1年ほど責任を持つような行為を殆どせずに、死んだように眠り、アタシたち人格が生活を回し、それでどうにかこの体は身体的に息をしているのに。
それは、果たして本当に生きていると言えるのか。それでも、この体が息をしている以上、責任はこの体に付き纏い、決して離れない。責任を負うのはこの体なのに、その責任を負う行為をした者は社会的には存在しないのに、この体が、雪希が責任を負うことになる。

それでは、責任を負うものがその期間ずっと出ていればいいとなるかもしれないが、そう簡単に出ずっぱりで居られれば、ハナからこんなことに苦労していないし苦心していない。
大抵、交代のコントロールは不可能だし、ストレスがその人格ひとりに掛かればその分容易に交代する。そして交代した人格は、自分のしていない行為の責任を取るために息をする。
息をしながら、責任を取る。DIDではない者からしたら、当たり前と思うだろうが、1人の体でシェアハウスしているDIDの者からしたら、これほどの理不尽はない。
例えるなら、他人がした行為の責任を自分が濡れ衣被って押しつけられるようなもの。この他人が体の中にいるのか、それとも完全に社会的に別個の1個体としているのかで、社会的な責任の取り方は全く異なってくる。
この例えなら、その他人を裁けばいい。だが、DIDでは裁くべき別個体が脳内にいる。存在証明も出来ない。別個体を分離して体を作ることなんて、錬金術ですら不可能だ。だから、アタシは「自分の」していないODの責任を取るために1ヶ月と少し入院したし、「自分の」していない自傷の責任を取るために傷痕の手当てをする。自分がしていないことの責任を取る時、いつも思う。
「どうして自分がしていないことの責任を取らなきゃいけないのか」
答えは簡単で、アタシたちの別個体がやったとしても、結局体はひとつしかないから、責任はこの体に帰属するから。誰がやったか如何を問うてくれる者を法もないから。
前の主治医から、口酸っぱく言われた。
「誰が何をしようと、連帯責任。責任は雪希さんの体に帰属する。世界中どこを見ても、人格を裁く国はない」
その通りだ。解ってる。3年もDIDをやってれば、そんなこと解る。けど、解ることと納得は別だ。何度理不尽だと思っただろう。理不尽なのに、その理不尽を解消する方法がない。

この理不尽を理解してくれる人もいない。主治医は「DIDを隠れ蓑にしてBPDを否定しようとしてるだけ」という。支援センターの人は、「就労のために交代をコントロールして」と言われた。
DIDなんだよ、人格いるんだよ、なんでわからないんだよ。コントロールできてたらDIDじゃないんだよ。
理不尽なのに、なんで解ってもらえないんだろうね。理解されないって、連帯責任を問われることと同じくらい苦しい。
どうして解ってもらえないんだ。どんなに言葉を尽くそうとしても、そもそも相手が聞く気を無いんだから言葉は意味を持たない。聞く気のない人間に届く言葉などない。戸籍がない人格たちと生きていくことを分かってくれる人が近場にいないのは、本当に苦しいのに、言えない。届かない言葉を発することは無意味だ。掴んでくれない人がいない声は意味を持たない。それだから、どうしようもないんだ。どうしようもないって諦めることは簡単だけど、もう諦めてしまいたい。期待するから、苦しくなるんだ。期待することを辞めたいのに、期待してしまうのは、どうしてなんだ。
辞めてしまえば楽なのに、どうしてどうして期待してしまうんだ。

解ってもらえない理不尽と、理不尽を理解してもらえない理不尽と、理不尽に期待してしまう理不尽。理不尽だらけの世界で生きることは、本当に苦しい。
生きることは、贖罪なのかもしれない。雪希の思い通りの人生を生きさせてあげられなかった贖罪。
死ぬこと以上に、生きることは贖罪なのかもしれない。アタシがアタシだけに勝手に科した、贖罪。
贖罪は多分生きる限り続く。死ぬことはそう簡単に簡単じゃない。それは何度もした未遂で分かった。生きる限り続く贖罪を続けていくのは難しいけれど、難しいけど、生きなきゃいけない。生きることは難しい。理不尽に抗うのも苦しい。それでも、理不尽に抗うこと。いつか報われると一縷の望みを抱くこと。
罪を犯さないこと。死なないこと。この二つさえ守れば、アタシたちはいつか償えるんじゃないか。そんなことを願ってもいいのか。分からないけど、生きなきゃいけない。
生きること、生きることを、1秒ずつ続けること。
それが、アタシたちがやらなきゃいけないこと。
1秒を積み重ねるんだ。

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