絶叫する息子_その2
転機は突然やってきた。
ほんの数日前の事。
平日の朝はいつも戦争で、戦争しているのは大抵、息子と夫で、私達は少しでも早く出発するべきなのに、彼はそんな事お構いなしで、シャツに片方の腕を通したまま、靴下も片方だけはいて、いつまでもボーっとしている。だから、「早くして!」という言葉の弾丸を出かけるまでに何十発も打つ。しかし、トムクルーズか、アメコミヒーローかの如く、彼には1発も当たらない。それどころか、カスリもしない。そうしてるうちに、夫の怒りは一定基準を超え、「鉄拳」ではなくて、「強制着替え」が執行される。彼は大層嫌がって「自分でやるから!」「やーめーて!」と絶叫して暴れるが、夫は構わず淡々と進め、着替えを終了させる。家の中ではもう、そういう彼の叫びが日常的に響いているから、そのうち、「ここの家、虐待ありますよ」と通報されるのではないか、いや、もうすでに通報されているのかもしれないと、いつもヒヤヒヤしている。
これまで、穏やかに準備ができたことが何回あっただろうか。
フードコートで絶叫し、転げ回った後日、その日もいつもと同様、朝食を食べ終えた息子は、のらりくらりとしていた。「これは、夫の強制着替えが入るぞ」と感じた私は、自分の支度を途中で止め、彼の方へ行き、そしてなぜか咄嗟に「息子ちゃん、赤ちゃんになって着替えさせてあげましょうか?」と口走った。
彼はポカーンとして私を見たが、すぐに嬉しそうな顔で、「うん、赤ちゃんになる!」と言ってゴロンと転がった。思いもよらない反応だったが、私は本能的に、”この機を逃してはならない”と判断し、「大きな赤ちゃんでちゅねぇ。お手どこでちゅかぁ?大きい赤ちゃん、ズボンも履かせてあげまちゅよー。」などと精一杯相手をした。そうしてるうちに、娘も「私も赤ちゃんになる!」と言って寝転び、同じように「大きな赤ちゃんでちゅねぇ」などと言いながら着替えさせた。「”でちゅね”なんて、この子達が赤ちゃんの時使わなかったよなぁ。」と思いながら。
そして、信じられないことに、この日は戦争が全く起こらず、キャッキャッ・ウフフと和やかに支度を完了させ、家を出たのだった。
この「赤ちゃん戦法」は数日たった今も続いている。私の方から「今日は赤ちゃんになるかい?」と聞くこともあれば、先に彼の方から「今日も赤ちゃんになる!」と宣言されることもある。顔をしかめて泣き叫んでいた朝の時間が嘘のようだ。
正直なところ、「赤ちゃん戦法」は咄嗟に口からでたもので、彼が本当にゴロンと横になった時は心底驚いた。そして、赤ちゃんのふりをする彼の相手をしながら、「彼は甘えたかったのか」とい至極単純なだが、これは極めて可能性が高い仮説だぞと思った。
私たちは、彼に対して「お兄ちゃんでしょ」「お兄ちゃんなんだから」という言葉をなるべく、直接言わないようにしている。しかし、無意識に「お兄ちゃん」を押し付け、彼が甘えることを良しとしなかったのだ。フードコートで絶叫した時もそうだ。お兄ちゃんは我慢できるはずだ。と思ったではないか。
息子は「お兄ちゃん」であることに疲れているのではないだろうか。
夫はこの作戦にあまり良い顔をしない。しかし、私は「仮説を検証したいので、ひとまずこのまま「赤ちゃん作戦」を続けてみようと思う。」と夫に宣言した。息子には好きなだけ赤ちゃんになってもらおう。そして、彼の変化を観察するのだ。そのうちに、赤ちゃんに飽きて「自分でやる」と言い出すかも知れない。いや、明日には飽きてるかも知れないが。
しかし本当は、「仮説を検証したい」なんて建前だ。絶叫の理由が解らなくてもいい。あの、嬉しそうな息子の顔を見られるなら、何回でも赤ちゃんになればいいよと私は思うのだ。