前へ行こうと決めたのは、今日の、今のわたしだから。
あれ?誰かがわたしを呼んでいる。
どこから聞こえてくる声なんだろう。遠く。遠く、遠く、遠く。
目には到底捉えられない。彼方のような、そうでないような。
だけどどこかで、誰かがわたしを呼んでいる。
その声が聞こえていることは確かなのに、明瞭じゃない。男の人か、女の人か、また別の生き物の声かもわからない。胸に感じる。
空耳?ううん、ちがう。この声は確かにわたしの耳に届いている。
ふと気がつく。これはもしかすると、遠い、どこか知らない場所から聞こえるものではなくて、すぐ傍なのかもしれないと。
小さく、か細く、囁くような、そんな声なのかもしれない。
聞こえるようで聞こえない。聞き取ろうとしているのに、なんと言っているかがわからない。でもなんとなくだけれど、もう少しでその言っている言葉が、意味が、気持ちが、わたしの胸に届く気がする。
まるで草をかき分けるように、それでも前に進んでいる感覚がしないように、視界の先で景色が広がって欲しいのに、それがいつまでも訪れないような。
草を踏み締める音、虫の羽音、山が鳴き、雨が地を打って奏でるリズム、風が優しく漂って……、そのどれにも掻き消されない囁く声。
胸がざわつく不思議な感覚。
胸に手を当ててみる。
これは、きっと、恐らく、本当に恐らくだけれど、わたしだ。
わたしの声なんだ。
どこからともなく聞こえてくる囁く声は、わたしの中でなにかを言っている。何かを伝えようとしてくれている。
なに?一体なにを言っているの?
わたしにはいつまでもその声が何を言っているのかわからない。
けれど、聞こえないけれど、わたしは胸で感じてる。心で聞く。自分の声を、胸を震わせながら、想いで受け止める。
そして──、そうしてから不思議と、ここじゃないどこかへ行こうという思いが湧いてきた。
足を動かす。草を踏む、雨に濡れた土を踏みしめて、一歩、一歩、前へと歩き出す。
虫や蝶、山に住む生き物たちがわたしの様子を見ている。雨は誰と区別することなく、ここにいるわたしの肩でリズムを打つ。
──囁く声はいつか大きく聞こえるのかな。なんと言っているのかがわかる時が来るのかな。
わたしの声は、いつのわたしの声なのかな。今?未来?それとも過去?
聞こえないうちは心で受け止める。そして感じたままに動き出す。わたしの心が未来へ歩かせる。今を肌で感じさせる。ここではないどこかに明日もいる。明日もまた、わたしはわたしの声が聞こえるのかな。
聞こえる声は、心に感じた思いは、正しいとは限らないかもしれない。
もしかするとこれはすべて勘違いかもしれない。そう思いたいだけかも。
だけれど、そのぜんぶでも良い。
そう思えるのは、この一歩を無理やり踏み出しているわけじゃないから。そう考える。
前へ行こうと決めたのは、今日の、今のわたしだから。