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ファンミーティング落ちまくるので、「光る君へ」講演会行ってきた。
「光る君へ」が好きだ。
どうやってあの平安時代をドラマ化したのか?気になって気になってしょうがない。
ファンミーティングは尽く抽選で落ちる。公式ファンブック類に手を出したらキリがなさそうだけど、脚本はほしいかもしれない…
そう思っていたら、脚本家大石静の講演会があると知り、勢いで申し込んでしまった。
「光る君へ」のオーケストラコンサートがあったことを知らずに逃してしまって悔しがっていたこともある。
ここで行かなきゃ公開するぞ!と現地参加を選択した。オンラインだと安かったから悩んだけどせっかくなので!!
行って正解だった。後の方の席に座ったけど、活気が見られてよかった。着物姿の脚本家と同世代の人も多かったけど、それより下の若い人も参加してたし、男性もいた。最後の最後に質問したの、男性陣でそれはそれで面白かったな。ガッツがあった!!
人生を賭けるという気概
書き上げるのに三年ほど準備期間があったそうだが、時代考証や和歌考証とのやりとりが脚本に影響を与えているのか〜と知られてよかった。
資料の乏しい時代の話なので、平安時代を描くにはオリジナリティも求められてくる。その中で、考証のアイディアが物語に組み込まれているのは面白い。
私は普段ドラマを見ないから新鮮に感じるのだろうか? 演出家や監督からの要望によって脚本も大きく変わっていくのだ。
生々しいのは撮りたくない、いや撮りたい。監督、脚本家、考証、演出、それぞれの想いの上で成り立っているのがあの「光る君へ」なのだ。
人生を賭けて研究をしているからこそ、引き出しの多さに惚れ惚れする。
はじめは質問もできなかったというのに、次第に積み重なっていく上で、考証家へのアンサーに応えられるようになる。
それでもプロが三年もかけて挑戦したのだ!
時代ものに挑むことがどれだけ難易度が高いのかがわかる。
大河で平安時代を扱って、転ぶか跳ねるかわからないなか、たくさんの思いが結晶してできたものだった。
考証家の言葉が真に迫っていて、どうして戦国時代が尊ばれるのか? どうして平安時代は蹴鞠を蹴って和歌を詠んでいて軟弱であると思われるのか?
武を嫌い、平和的に政治を行おうと最新技術であった陰陽道、律令政治を取り入れて穏便に政治を行うことを考えていた時代なのである。
平和を保ったからこそ、1000年も生きながらえ、読み継がれる物語が生まれたのだ。
本物への本気
とにかくプロへの、本物への思考が強い!
例えば、道長が髪を切るシーン。顔まわりの髪を切るには、理髪師などの国家資格保有者ではならないそうで、かつ剃髪の場面なので、理髪師が坊主でないといけない!
理髪師なのに坊主…。そんな人はやはり稀有なようで、アシスタントの人は見つからない!と漏らしていたそうだ。
越前編では紙漉きのシーンがあったけれど、紙漉き職人のあのシーンをやっている人たちもなんと本物の紙漉き職人なのだそうだ!
若い女性がバッチリメイクをしてきたそうなのだが、光る君への配役たちはほとんどドーランしか塗ってないので、(まじか)
チーフ監督?がカメラにちらっとしか映らない女性のメイクを問答無用で落とさせたらしい。
そして!何より!
めっちゃびっくりしたのが、月の映像である。
なんと、すべて当時の暦から月の満ち欠けを計算して、プロの天体カメラマンに撮影してもらっているそうなのだ。
記録が残っている出来事からおそらく逆算して、オリジナルのストーリーでも何年何月何日に起こった出来事なのかを作り込んでいるから、できるのとなのだろう。
やばい、やばすぎる! NHKの本気をみた。
商業的なリスクを考えるなら、跳ねるかもわからない平安時代物コンテンツにここまでお金をかけることができないはずだ。
NHKなんて…と言われることも多いけれど、やはり文化を見せる、発信するという気概は、ほかにはない物だと思う。
世界的に発信できる「レディームラサキ」の物語として、「光る君へ」は羽ばたいていくのだろう。
創作者として
創作者としてのポリシーもびしばし感じた。
時代物を書くに当たって、分かっていることと分かってないことがある。
史実として分かることは確実に押さえ説得力を求められる一方、記録が残ってないことはオリジナリティを発揮する必要がある。
じゃあ、オリジナルなら何でもいいかってことではない。
史実を盛り上げるために、逆算して展開を考える必要がある。記録が残ってないからといって、何をしても良いわけでは無いのだ。
歴史的な人物を劇中に登場させるのに、平行線にならないようにしているらしい。
これも、物語を盛り上げるための規則、なのだと思う。実際には直接に関わりなかった人物とも接点を持たなくてはならないのだ。
何も考えずにただ歴史的に登場させるだけなら、登場人物との関係は薄く平行線になりやすい。
だからあえて必要な登場人物との接点を持たせるようにしているのだ。
それは劇中に登場する小道具などもそうで、後々大切な場面で使うために、あえて事前に登場させているのだそうだ。
盛り上げたい出来事から逆算をして展開を組み立てていく。
個人的に身につけたい創作の姿勢だった。
また、これは時代劇の醍醐味と言うのだろうか、そのセリフ回しは独特だ。
でも確かによく考えてみれば、例えばロミオジュリエットのセリフを現代で吐き出せるかと言ったら、恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがない。言えるはずがないというか、言ったところとて、不自然な状態になってしまうのだ。
個人的に時代物を描きたいそう思ってきたけれど、やっぱり時代劇物を書くには、準備と言葉遣いと歴史的な背景がないと無理で、今は少しずつ書きたい時代のものを読んだりしているのだが。
創作のスタンスを少し垣間見ることができたのはよかった。
我慢しない生き方
これは、創作者の生きるための持続的に書くためのライフハックなのかもしれないと思った。ことに書くこと以外は、欲望のままに生きるという決まりことがあるらしいのだ。
いろいろ制約の多い脚本と言う中で、我慢する部分と披露する部分の両立を目指すのはとても難しい。
欲望のままに行き寝たり食べたりしてるのか定かでは無いけど、そういう生き方を続けているから、うまくバランスが保てているのかもしれな〜
終わり。
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![葉々(yoyo)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/149968233/profile_50054d3a3a73df126d3701585ddd2ee1.png?width=600&crop=1:1,smart)