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手話と敬語とパンスカ語
手話には敬語がない、と聞きました。尊敬の気持ちを表す動作はあるようですが、手話の言語体系の中に、聴者の間で一般的な敬語表現は組み込まれていない、と。そもそも日本で使われてきた手話は、「日本手話」であって、日本語手話ではない*とか。手話で話す人の言葉を聴者に伝える場合、手話通訳の人が、一般的な日本語になるように文章を組み立て直す、とも聞きました。
*「日本手話」の他に「日本語対応手話」というものがあり、それについては後で書きます。ここではとりあえず「日本手話」を前提に書きます。
日本語とは違う言語体系をもつ「日本手話」、これはちょっと面白いなと思いました。
手で語る際、可能なかぎり枝葉末節を省いて簡潔に素早く伝えることを重視する、という合理性から来るものなのか。
ん、すると敬語は枝葉末節か?
日本語の中にある敬語表現は、上下関係のはっきりしている日本社会の中で、秩序の一つとして機能しているのだと思います。日本社会の中にある上下関係は、年齢の上下、役職など社会的地位の上下、依頼主(クライアント)と受注者の上下などさまざまなタイプがあります。
または不特定多数の人の前で話すとき、書くとき、失礼にならないように、偉そうに見られないために、謙(へりくだ)った表現をするとか。
対等という関係性が前提にない社会にとっての、必要不可欠な言語的要素。
第二次世界大戦後80年近くたって、アメリカのデモクラシー思想の影響を強く受け続けていても、この上下関係とその心理は社会のいろいろな場面で生き残り、敬語として、会合・儀式の席順などで健在みたいです。
(また、敬語表現を「美しい日本語」と捉える見方もあると思います。)
もし手話に合理性あるいは実利性があるとしたら、敬語はある意味、「余分なもの」あるいは「装飾的なもの」なのかもしれません。少なくとも意思の伝達において「最低必要限度」からは外れるといった。
いやいや、日本人である限り、いや日本人でなくとも、日本語人として日本で生きる場合には、必須ですよ!という考え方もあるでしょう。
心理的には敬語なしでは、1日として心安らかに暮らせない。
わたし自身の敬語についての考えを書くと、敬語を知らないわけではないけれど、日本語はもっとすっきり簡潔なほうが(会話でも書き言葉でも)いいんじゃないかと思う方です。
相手に失礼がないように、と気づかうあまり、妙な日本語を話したり書いたりするケースはよく見かけます。
この場合も、「相手に失礼がないように」という意図が伝われば、変な言葉づかいであっても、指摘されず、失礼にもならないみたいです。
むしろ日本語としてはまったく問題のない喋り方、書き方をしていても、尊敬語や謙譲語、あるいは丁寧語が不足気味だと、「ぶっきらぼうな人だ」と受け取られるかもしれません。
はい、わたしはどちらかというと、その「ぶっきらぼうな」人です。いや、ぶっきらぼうなつもりはないですが、敬語表現は主として意図した場合にのみ使っています。意図したときというのは、心からそう思っていてそのことを相手に伝えたいときです。
「先日は〇〇を送っていただき、ありがとうございました。本当に助かりました」 この程度ですが。
自己紹介をするとき(メールでも、人と会っているときでも)、「猫山犬子と申します」という言い方は普通にあるし、というかほぼ9割以上の人がこう言っている決まり文句にも見えます。
でも、、、なんかこれって、わたしの個人的なイメージでいうと、ゾロリと袴姿の人が、「伊奈半左衛門と申します」と言ってるみたいに感じてしまう。単に習慣だから、だれもおかしいと言いませんけど、「申します」だなんて! 江戸時代かって。
いや「申す」は他でも使われていると思います。「前回、申し上げたとおり、、、」「うちの父が、そう申し上げたんでしょうか?」
「前回、そのように伝えた(言った)とおり、、、」ではまずくて、
「前回、そのようにお伝えしたとおり、、、」ならOKですが気持ちエラソウ?
「うちの母が、そう言ったんでしょうか?」ではまずくて、
「うちの母が、そう話したんでしょうか?」でもまずくて、
「うちの母が、そうお話ししたんでしょうか?」は変。でもこう言う人います。
多和田葉子さんの『地球にちりばめられて』という小説を読んでいたら、パンスカ語という人造語が出てきました。留学中に故郷の島国(日本)が消滅してしまった主人公が、滞在中のヨーロッパで生きていくため、スカンジナビア圏の言葉から独自に編み出した「パンスカ(汎スカンジナビア)語」をしゃべるようになります。
その言葉がけっこう面白い。といっても、実際には、パンスカ語を日本語訳した(という設定の)言葉なのですが。
以下の例は主人公のHirukoの会話。会社の同僚、ドルテと話している。
(頭のHiruko、ドルテは、原文にはない)
Hiruko「人魚姫と類似」ドルテ「子どもたちを喜ばすためのコスプレよ。」Hiruko「コスプレは、わたしの生まれ育った国でできた言葉。」ドルテ「コスプレは英語でしょう。」Hiruko「ちがう。英語人は、コスチュームをコスと省略しない。プレイをプレと省略しない。コスプレは、部品は英語でも、モンタージュの仕方は非英語。」
ドルテ「Hiruko、あなたは本当に絵が上手いから、うらやましい」
(本文、略)Hiruko「わたしの小学校では、みんな器用だった。毎日、みんな、たくさんの文字、たくさんの素晴らしい絵を生産。それと比較すると、わたしの絵は永遠に二歳。」
ぶっきらぼうの極みみたいで、わたし的には受けました。多和田さん、やっぱり面白い!
これを読んでいたとき、冒頭で書いた手話の話を小耳に挟んで、ん、手話もパンスカ語みたいな感じなのかな、と。
そこで手話についてほとんど知識がないので、少し調べてみました。
手話言語研究所(厚生労働省委託 手話研究・普及等事業)の「新しい手話の動画サイト」より
日本手話には標準手話というものがあって、三つの種類に分けられるそうです。一つは「保存手話」で、伝統的に長く日本で使われてきた手話の言葉。
ちなみに手話は、一般言語と同様、国や地域によって違うものだそうです。これ、もし手話が各国共通だったら、手話話者は海外のろう者と自由に話ができる、となるのでしょうか。ただ、手話言語がどのように作られるかを考えると、元になる言語との関係からやはりそういうことにならないのでしょう。(国際手話というものがあって、オリンピックで使われたという話は聞きます。あいさつ程度なのかもっと多様なのか、については未調査)
その次にくるのが「創作手話」で、日本語に対応して新たに作られるものだそうです。「新しい手話の動画サイト」のトップページには、現在提案中と思われる創作手話の動画がリストされています。それに対して「評価する」「意見を書く」を投稿するようになっていて、ろう者の人が参加する仕組みのようです。
評価のトップに来ているのが、「独創的」「利便性」「調和」などで、「闇バイト」や「パワーハラスメント」「カスハラ(カスタマーハラスメント)」などの言葉もありました。なるほど、最近出てきた言葉も手話に反映されていくという、当然でしょうが。(順位は日々変わるようです)
創作手話は、制作の方法として1. 組み合わせ 2. 合成 3. アレンジ 4. 新規の四つの方法があるそうです。
「1. 組み合わせ」というのは、たとえば<原文>という言葉を新たに作る場合、標準手話として確定している言葉の中から、<基づく>と<文章>を選び、順に並べて、新たな<原文>という言葉にするそうです。
「2. 合成」というのは、たとえば<酪農>という言葉を作りたいとき、すでにある<チーズ>と<作る>を(順に並べるのではなく)合わせて一つの言葉(手指言葉)として表現します。
「3. アレンジ」はすでにある言葉を少し変えて、新たな意味に変化させます。たとえば「冷やす」は「冬・寒い」からアレンジされます。
「4. 新規」というのは、まったく新たに手話としての言葉をつくるものです。動物の名であれば、特徴的な動きを真似て作ったりするようです。
「保存手話」「創作手話」の次にくる手話のタイプに「ラベルの追加」があります。例として挙げられていたのは「リベンジ」で、すでにある「復讐・恨み・恨む」を意味する手話にこの意味を追加して、「リベンジ」の意味でも使うというもの。
と、こんな風に日本手話は作られるようです。
酪農を表すときに「チーズ」と「作る」を合わせる、それで酪農の意味になることや、「独創的」「利便性」「調和」といった一般的な用語がいま提案されていて、評価の対象となっている(求められている)ということから、手話の世界での言葉の獲得は簡単ではない、多くの労力が求められるのだな、と思いました。
そういえば手を使って話す、と言えば、ハワイのフラやポリネシアンダンスは、手の動きを使って物語を紡ぎます。手で話す、と言う方法は人間にとって案外自然なことなのか。手指が自由に繊細に動かせることで初めて可能な、その動きだけで言葉の領域にまで高められる伝達方法という意味で。
『デフ・ヴォイス』(丸山正樹著)という手話通訳者が主人公の小説を読んでいたら、次のような手話の例が出てきました。
女性は荒井のことを指さし( =あなた)、
次に自分を指す( =わたし)。
そして肘を立てた右手を肩の上から後方へ動かし( =以前に)、
立てた両手の人差し指を前後から近づけた後、上に向けた両手の指をすぼめながら下ろした( =会った)。
これをそのまま文章にすると、
「あなた、わたし、以前に、会った」となります。
手話には、聴者が日常使っているような日本語を支える敬語表現はない、というのが、この例からもわかります。
「日本語を支える敬語表現」と書いたところで、もし日本語を音声として使う人間が、敬語禁止令みたいなものができて一切使えなくなったら、、、と想像すると、苦労するというか急には対応できなさそうです。
「棚の上の荷物をとってほしい」
「どれ?」
「赤い大きなバッグの隣りの黒い箱」
「これ?」
「あっている」
「ありがとう」
「問題ない」
あ、やっぱりパンスカ語に似てる。
でもこれって、英語にしたらこのままで全然問題なさそう。
じゃ、さっきのパンスカ語(の日本語訳)を英訳してみましょうか。
Similar to The Little Mermaid.
(人魚姫と類似)
Cosplay is a word that came from the country where I was born and raised.(コスプレは、わたしの生まれ育った国でできた言葉。)
No, it is not. English people do not abbreviate costume as cos. They do not abbreviate play as pre. Although the parts of "cosplay" are English, the way they montage is non-English.
(ちがう。英語人は、コスチュームをコスと省略しない。プレイをプレと省略しない。コスプレは、部品は英語でも、モンタージュの仕方は非英語。)
In my elementary school, everyone was dexterous. Every day, everyone produced a lot of letters, a lot of great drawings. By comparison, my drawings are forever two years old.
(わたしの小学校では、みんな器用だった。毎日、みんな、たくさんの文字、たくさんの素晴らしい絵を生産。それと比較すると、わたしの絵は永遠に二歳。)
う〜ん、大きな問題なさそう。特に失礼でもぶっきらぼうでもないし。
とすると、わたしを含めた聴者(音声話者)が使っている敬語混じりの日本語は、このままでいいんだろうか、という疑問が少し湧いてきます。あるいは変化する可能性はあるのか。いや、変化しない方がいいのか。
一つ言えるのは、環境保護の観点から過剰包装をなくすように、言語環境の健全化においても、過剰敬語は減らしていってもいいのかも。でも簡単ではない気もします。
何重にも包(くる)まれたキレイな包み紙の和菓子に対して、過剰包装をなくせと言っているようなことかもしれません。
多分、敬語は日本社会の上下関係にだけ原因があるのではなく、人の和を尊び、周りの人間あっての自分という日本人の心理作用の現れなのでしょう。
敬語ではないですが、「よろしくお願いします」文化みたいなものが日本社会にはあって、この言葉自体に大きな意味はないのだけれど、これ抜きでは暮らしにくい、いわば緩衝材みたいなものかと。わたしも本当にお願いしたい気持ちのときは、相手に伝えるためこれを使います。
「よろしくお願いします」の使用で気になるのは、サッカー中継で、実況アナとゲスト解説者が、試合の前とハーフタイム後にこれを言い合う場面。
「(後半も)よろしくお願いします」
「(後半も)よろしくお願いします」
わたしから見ると、仲間内のあいさつをマイクON状態で聞かされているみたいな気分。
いやいや、視聴者に向けても言ってるんですよ? んーーー、そうかなぁ。
それも少しはあるかもですが、まずはスタジオで顔を合わせている二人が、挨拶し合ってるように聞こえます。
敬語じゃなくても、こういったところに根付いている心理のやりとりが、やはりあって習慣化している。
世代から世代に伝えられて、年齢に関係なく、幅広い層で見られます。
最後にもう一つ、書いていて気づいたことを。
日本語の敬語がときに過剰になる理由の一つとして、自分が(向かい合って)話している相手、または書いている読み手に対してではなく、話の中で対象になっている人に対して敬語を使っている、ということがあります。
たとえば:
札幌の会合でお話されたTさんが、その後、私どものオフィスにお越しくださって、大変恐縮しました。
*「お話された」という尊敬語は、Tさんに対してのもの。「私ども」は自分をへりくだって言うときの謙譲語で、これもTさんに対してのもの。「お越しくださって」もTさんに向けた尊敬語。話の聞き手(読み手)というより、話の中の人物に対してすべて敬語表現をしていると思われます。
いや、とはいえ、話している相手が自分の目下または対等の者だった場合は、こうは言わない(敬語は使わない)でしょうから、その意味では、両方に対して敬語を使っていると考えられます。
上の例文の敬語なしの場合:
札幌の会合で話をしたTさんが、その後、私のところのオフィスに来てくれて、とてもありがたく思った。
ちなみに、この二つの文を英訳してみると(DeepL翻訳+)
敬語あり:
Mr. T, who spoke at the meeting in Sapporo, came to our office afterwards, which we were very grateful for.
敬語なし:
Mr. T, whom I spoke with at the Sapporo meeting, later came to my office, for which I was very grateful.
後の方は、「わたしがTさんと個別に話した」という解釈です。「話をした」を「話をされた」にすると、「who spoke at the Sapporo meeting」となって二つの文はほぼ同じになります。
とすると、この「された」は、尊敬語であると同時に、Tさんが話をした状況も表しているように見えます。
このように敬語表現は、上下関係や(その場にいるいないに関わらない)相手への気づかい、人の和を好む日本人の心理などさまざまな要因から発生し、機能していると考えられます。
機能しているものをなくす必要はない、という考え方もあると思います。が、どのように敬語を使うかについては、もう少し検証を加えてもいいかなと感じています。
*ろう者の人の書き言葉について、上で紹介した小説『デフ・ヴォイス』に次のような説明がありました。日本手話で話す人は文章を書く際、助詞や接続詞が抜けがちになるそうです。手話では、「あなた、わたし、以前に、会った」で通じるものが、文章にする場合、不十分になりやすい、ということのようです。
子どもが聴者で親がろう者の場合、親の書いた学校への提出物を、子が点検して、文章に抜けがないか調べるというエピソードがありました。
これって、移民家族の子どもが、言葉の不十分な親を助けて、家にかかってくる電話の応対をしたり、書類を書く手伝いをしたり、買い物のとき店の人との間で通訳したり、というのとよく似ています。
日本語対応手話について:
冒頭で手話には「日本手話」と「日本語対応手話」の二つがあると書きました。前者が手指や顔の表情、動作も交えて表現するのに対し、後者は主として口の動き(口話)と手話単語を併用するようです。こちらは日本語の文法に沿って手話表現をします。対して日本手話は、ろう者のための独立言語であると捉えられているみたいです。同じ手話でも共通項が少ないのか、二者が会話して理解し合うことは難しいようです。
両親がろう者であるろう者の人は「日本手話」を、難聴や中途失聴者、または聴者が手話を取得する場合は「日本語対応手話」になるようです。いろいろな記事を読むと、この二つはどうも対立関係にあるようで、「聾教育」ではどちらの手話を導入すべきかの論点にもなり、論文も書かれています。
日本手話の話者は、手指だけでなく、顔の表情や体全体の動作を活発に使って、さまざまな情報や感情を表すそうで、その行為は日本語を話す聴者の「無表情さ」とは正反対で興味深いです。彼らから見ると、「日本語対応手話」の人の手話は(そして聴者の会話も)、表情が少なくてつまらないと感じるかもしれません。
『コーダ あいのうた』というアメリカ映画(2021年)は、家族の中で一人だけ聴者であるルビーという高校生が主人公。ルビーはコーダ(CODA=Children of Deaf Adults=ろう者の親の元で育った聴者の子ども)で、コーダがみなそうであるように、家族の通訳役を担っています。この両親を演じている俳優はどちらもろう者で、手話での会話は非常にリアルで活気があり、アメリカにおける手話がどのようなものかを体験できます。元々アメリカ人はジェスチャー豊かに話しますが、ろう者の人はその2、3倍くらい動きや表情が活発で、見た目、日本手話の話者との共通点を感じました。
*
ところで、わたしの読んだ(Audibleで聞いた)小説『デフ・ヴォイス』は、「日本手話」の立場から書かれているのだ、とあとで気づきました。主な登場人物がろう者の親をもつろう者だったりします。あ、主人公はろう者の両親から生まれた聴者で、子どもの頃から親の通訳をしてきたコーダです。それで手話が流暢なのです。ろう者と聴者の「間にいる者」が、このミステリー小説のキーとなり、事件の謎を解いていきます。
二者の対立を見ていくと、「日本語対応手話」派の人は、「そもそも、ろう者を両親にもつろう者の数は少ない(子は聞こえることが多い)」として、「日本手話」に反対しているようです。「日本手話」派の人は、ろう者が心情も交えて豊かな言語表現ができるのは日本手話だと主張しているようです。
ちなみにテレビなどで使われている手話は、この二つの他に「中間型手話」というのがあるそうです。『NHK手話ニュース845』という番組でニュースキャスターを務める那須英彰氏は、2歳のときに全ろうとなり、第一言語が日本手話であるろう者として仕事をしています。(CINRA<Fika>インタビュー記事)
1967年生まれの那須さんの話では、通っていたろう学校では手話は禁止されていたとか。国の法律によって禁止されていたようです。詳しくは上のインタビューをお読みください。
ところで冒頭で手話には敬語がない、と書きました。日本語の文法に即しているとされる「日本語対応手話」ではどうなのか、調べてみました。
日本語対応手話テキストというサイトでは以下のような説明がありました。
<敬語も日本語の通りに手話を当てはめて表現するが、「お」や「ご」は頻繁に使われるため、指文字などで手の動きが煩雑になり、見苦しくなる。要点だけ「お」や「ご」を付け加えて、敬語であることを表すのがよい。>
とのことです。やはり手話において、どのタイプの手話であっても、敬語は煩雑さの元になるようです。ある事情、環境のもとでは、日本語をベースとする社会でも、敬語の使用は軽減される、されてもよいとすると、、、 今後、海外からやって来る日本語話者のことを考えても、敬語の使い方について、検討する余地はあるんじゃないかな、と。
マイノリティの生き方や視点から、マジョリティがそれまで当然としてきた生き方や視点を変更するのは、ここ数年来、いろいろな場面で起きてきたことです。手話の視点から日本語が変わる、あり得ることじゃないでしょうか。
*タイトル画像はnoteに登録されている写真で、「ありがとう」を表す手話(日本手話)です。左利きバージョンのようです。