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伝統は忘れて。世界各地のローカル楽器が出会い、出自不明の音楽世界が!
音楽家にとって新たな楽器との出会いは、大きなインスピレーションの元、と言われます。音を出すもの=楽器、と捉えれば、素朴で単純なつくりの民族楽器から、億の値がつくような精巧な名人技のヨーロッパ発の楽器まで、同等です。料理用の鍋や皿、バケツでさえ、ときに楽器になります。
西洋クラシック音楽でつかわれる楽器は、ある意味、制度の楽器かもしれません。ピアノ、バイオリン、オーボエ、ティンパニー、、、どれもコントロールされた素晴らしい響きの音を出すかもしれませんが、それによって音高、音階、和声、様式が生まれ、歴史が重ねられ、ついに制度にまで「高められる」。
また聴く方も、その制度の中で音楽を楽しみ聴く傾向があるとも言えます。
ポップスの世界も同様で、商業音楽のメインストリームは、制度との密接な関係があります。ほぼ決まった様式、楽器構成、アレンジ、+その年はやりのサウンド傾向といった。(ビジネスのあり方も含めて)
じゃあ、制度から自由な音楽というのは存在するのか。
わたし自身は、音楽は聴くのも演奏するのも好きですが、無意識的に制度から距離を置いた作品や演奏を選ぶ傾向があります。どのジャンルでもです。そもそも「ジャンル」はそれほど重要ではなく、制度との距離感の方が大事なのです。(わかりにくい?)
たとえば、どこかの地域の民族(伝統)楽器による楽曲を聴く場合も、「これぞ、というお勧めの名人」の演奏ではなく、制度から外れた人の演奏が聴きたい、そういうものをいつも求めています。
フランスの音楽家が尺八を完璧にマスターして、日本の伝統音楽を伝統的奏法で見事に演奏する、といったケースにはあまり興味が湧きません。
とはいえ、クラシック音楽やポップスをそこそこ長く学んだり聴いたりしてきたせいで、制度や様式がいかに音楽にとって有効か、を知らないわけでもないのですが。
それでも、いまは、特にここ何年かは、音楽の中から聞こえてくる「制度のようなもの」が気になって、そこからどれだけ距離を取れるか、がテーマになっています。
音楽はどこまでも自由なものであってほしい、そう思います。
そのような音楽を求める中で、一人の音楽家(作曲家、演奏家、シンガー)と出会いました。ちょうど来週(11月15日)、ECMから新譜が出るので、そのアルバムを中心に書いていきます。
その人の名はステファン・ミクス、ドイツの音楽家です。楽器オタクのような人で、世界中を旅してその土地その土地の固有の楽器と出会い、それを自分の中に取り入れ、ときに楽器に手を入れ、その楽器で曲をつくり、演奏し、録音しています。世の中にある音楽のどのジャンルにも当てはまるようには見えない、その意味で既存の音楽の制度から大きく外れています。
ステファン・ミクス(Stephan Micus):1953年、シュトゥットガルト生まれ。16歳のとき、初めて非西洋の国に旅をして、その地域の音楽文化に触れたことで、その後、アジア、アフリカ、北中米、東欧と世界中をまわって様々な伝統楽器と出会い、多岐にわたる楽器をその土地で学んできた。インドでシタールを、グラナダでフラメンコギターを、尺八と笙を京都で、スリンをバリ島で、イリアン・パイプスをアイルランドで、ドンドンをガーナで、ドゥドクをアルメニアで、バガナをエチオピアで、ティプレをコロンビアで、サタルをウィグルで、という風に。
父親は画家のエドワード・ミクス(1925〜2000年)。妻のノブコ・ミクスは日本人。
ミクスの音楽は、文化も宗教も気候も社会制度もまったく異なる国々の楽器を、音楽という抽象メディアの中で一つに合体させ、どこにも存在しない、いわば反世界のような音場をつくりだしています。現実世界ではほぼ不可能な、音楽だから実現できる、一つの世界観。
使用する楽器はローカルな伝統楽器ですが、作品をつくる際、奏法はその楽器本来のものではなく、ミクスが生み出した、表現したい方法によっています。楽器の持つ伝統(制度)から離れることによって、楽器に内在する新たな可能性を見つけて広げたい、ということのようです。
音楽の制作は、インプロビゼーションと作曲の中間のようなスタイルで、試したい楽器をつまびき、あるいは吹き、そこで生まれた小さな種のようなフレーズをゆっくりと時間をかけて発芽させていく、というやり方。時間をかけて作ること、そのことに重きを置いていると語っています。
音楽の記録はすべて録音によるもので、譜面にとることはないそうです。そのやり方で、これまでに制作したアルバムは、来月発売のものを含め28枚。
ミクスは自分の声も楽器の一つとして扱い、とはいえ「人間の声による歌」としか言いようのないものなのですが、それがまた素晴らしい。新譜の『To The Riging Moon』の3曲目、「In Your Eyes」を初めて耳にしたときの衝撃は忘れられません。人間のもつ声のエネルギーに揺らされたという感じ。
ティプレというコロンビアの弦楽器(ギターより小ぶりで輝かしい音がする)3つのマルチプレイに乗せて、のびやかに歌われるどこの言葉ともわからない(でもそれは確かに詩だと思う)歌。言葉のない世界、でもそこには詩がある、そんな歌声です。
ミスクのアルバムはほぼすべて、彼一人によって演奏されます。マルチレイヤーにより、複数の楽器の音を重ねて録音しています。楽器だけでなく、声も「5voices」と表記されているように、一人コーラスをしています。
ただ音響的にいうと、楽器を複数つかっている場合も、2レイヤーか3レイヤーくらいの聞こえ方で、混然とした感じはなくシンプルです。
使用楽器がさまざまな土地のローカルな楽器なので、西洋楽器とは違う音響、雑味のような(苦味とか渋みとか)が感じられ、それが曲想と相まってどこのものとも言い難い、アナーキーな音世界を生んでいます。
新譜の『To The Rising Moon』では、コロンビアのティプレのような「撥弦楽器」(はつげんがっき:ギターのような弦をつまびくタイプ)と、ウイグルのサタルや南アジアのディルバのような「擦弦楽器」(さつげんがっき:チェロのような弓で弾くタイプ)の曲が交互に演奏され、音色や音響のくっきりとした違いが聴覚に刺激を与え、感情を揺さぶります。
ステファン・ミクス:第1曲でつかわれているティプレという楽器とは、コロンビアで出会った。コロンビアには3度行っているが、最初はガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』に書かれている古い時代のその場所を体験したかったから。そこでティプレと出会い、恋に落ちた。ギターを少し小さくしたような弦楽器で、輝かしいエネルギーに満ちた音が出せる。自分用のティプレを数年前に作ってもらい、今回レコーディングで初めてこの楽器をつかっている。
またディルバについては次のように言っています。
「インドではこんな風にディルバが演奏されることはない。長い時間をかけて、このように音を出すことを自分で見つけきたんだ」
アルバム後半では、各国のローカル楽器が混合して用いられています。第6曲の「Waiting For The Nightingale」ではディルバに、カンボジアン・フルート、ツィター、声などが複雑なレイヤーとなり絡まり合っています。とはいえ、楽器と声がユニゾン(斉奏)の部分も多く、音響的にはシンプルです。
ところでこのアルバムのタイトル『To The Rising Moon』ですが、日本の俳人、水田正秀(1657〜1723年)の俳句がインスピレーションの元になっているようです。ブックレットの最初のページに、次のようなの俳句が記されていました。
my house burned down
now I have a better view
of the rising moon
--- 元の俳句 ---
蔵焼けて
障(さわ)るものなき
月見哉
我が家が焼け落ちてこの心境。なんだか凄い。これぞ日本人という感じも。
ちなみに全11曲からなるこのアルバムの最初の曲のタイトルは「To The Rising Sun」、そして最後をアルバムタイトルでもある「To The Rising Moon」で閉めています。
フランスのウェブマガジン「Webzine Rythmes Croises」で、ミクスは自身の音楽に対する基本的な姿勢を述べていて、興味深く感じました。(ただしフランスとの関係は薄く、一般の認知はあまり高くないようです)
作曲をするとき、あなたが楽器と出会ったその場所のことを思い出すのでしょうか、という質問に対してミクスは次のように答えています。
いいえ。出会った楽器で伝統音楽をやりたいわけではないからです。だから自分の見聞きしたすべてを忘れること、それが最も大きな仕事になります。新たな演奏法を見つけるためです。
もしいい音楽を作りたいと思ったら、自分の内部をすっかり空にすることが求められます。そうすれば音楽がやって来ます。あまりにたくさんの、細部に至るまでの詳細な音楽的なアイディアがあると、あまりよくないと思います。理想を言えば、音楽が自分の外からやってくるのがいい。あなたはただ、それに耳を澄ますだけ、何が起きているかただ観察すればいい、何かをつかもうとしてはいけない。むしろ逃してやる、そういう状態です。
この言葉はある意味、あらゆる音楽において、曲を作ったり演奏したりするときの肝のようなものかもしれません。たとえそれが伝統的音楽(西洋クラシック音楽とか)であっても、音楽を聴くとき演奏するとき、このような心境に自分を置くことができれば、音楽とのまたとない出会いがあるかもしれません。
わたしはミクスの言葉をそのように受けとめています。
2024年11月15日、ECMより発売のミクスの新アルバム『To The Rising Moon』
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(この記事はDL Media Music の音源、資料を元に書きました)
蛇足:音楽と制度の関係について
たまたまNetflixで、男子アイドルグループのドキュメンタリーをチラ見しました。3人のメンバーが、追加メンバーを選ぶという設定でオーディションをするというもの。10代から30代前半くらいの歌+ダンス系の男子応募者が多数集まって、自分のパフォーマンスを披露します。
全編をじっくり見たわけではなく、エピソード1は終わりまで、そのあとは端折ってチラホラと。それで気づいたのは(感じたのは)、オーディションで披露された彼らの歌唱やダンスが、ほぼ1種類に見えたこと。
違う歌をうたっているし、ダンスも自前の振り付けだったりして、一人一人違うはずなのですが、、、印象としてはほぼ1種類。声の出し方(喉もとで絶叫するタイプの高音域の歌い方)は同じに聞こえたし、ダンスも動きのパターン、身体とリズムの関係が似ていてオートマチックに見えました。
いや、特定のアイドルグループに入るためのオーディションなのだから、これでいいのかな、とは思いました。
対象となるグループに合うかどうかが採点のポイントなのでしょうから。審査をするグループのメンバー自身、「仲間になれるかどうか、協調性を重視する」と言っていましたし。
それで思ったのは、そうかアイドルというのは一つの制度なのだな、ということ。その制度の中で、はみ出すことなく、余分なことをすることなく、表現すべきものを効果的に出していくこと。それをファンも望んでいるはず。制度の中で小さな違いを作り出し、一人一人の個性づけをすることで、わたしはあの人、わたしはこの人という推しが生まれる。
アイドルという仕組み自身が制度であり、そこでうたわれる歌、踊られるダンス、すべてが制度。そしてアイドル本人も制度の一部であり、また制度を構成する要員。そういうことなのかな、と思いました。
はつらつと歌い、踊り、自由で解放的な音楽世界が爆発しているように見えて、実はきっちりとした制度の中に従順に収まっている、それがアイドルたちの音楽世界である、というのがわたしの(現在の)解釈です。