新世代作家たちが描く、リアル or 空想的(スペキュレイティブ*)なアフリカの小説
*スペキュレイティブ・フィクション(Speculative Fiction)とは、さまざまな点で現実世界と異なった世界を推測、追求して執筆された小説などの作品を指す語。フィクションの複数のジャンルにまたがって使用される。
(ウィキペディア日本語版)
5月にスタート予定で準備している新プロジェクト「アフリカ新世代作家・作品コレクション」について、発想のもとになったこと、プランの意図や経緯について書きたいと思います。
このシリーズは、2015年に出版した『南米新世代作家コンピレーション』の兄弟姉妹編といえるものになりそうです。
日本で比較的ファンのいる南米文学(マルケス、ボルヘス、リョサなど)でさえ、新世代作家の、つまりマルケスの孫世代にあたる作家たちの作品は、日本語であまり紹介されていません。アフリカ文学となると、、、その傾向はもっともっと強いです。
チヌア・アチェベやエイモス・チュツオーラ、ウォーレ・ショインカなどの孫世代にあたる、ナイジェリアのチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』が少しだけ話題になったことがありましたが、一般的にはアフリカ文学は限られた読者にのみ読まれているように見えます。
ここでアフリカ文学と呼んでいるのは、主としてサハラ以南の英語やアラビア語を母語としない国々のものです。その地域に属する作家の場合も、南アフリカのナディン・ゴーディマーやJ・M・クッツェは母語や出自の点でここに属さない作家と考えています。また北部のエジプトには、ナワル・エル・サダウィ、ライラ・アハメドのような優れた女性作家が何人かいますが、言語的にも出自的にも、ここでいうアフリカ文学には入りません。
つまり、昔の表現でいうなら「暗黒大陸(ブラックアフリカ)」、英語では「Sub-Saharan Africa」と呼ばれる地域が生地だったり、育った場所だったりする作家たちの作品を、ここではアフリカ文学と呼んでいます。
わたしのアフリカ文学との出会いは、2011年から2013年にかけてウェブ上で連載した『とりうたうあたらしいことば | Birds Singing in New Englishes』で世界のあちこちに住み作品を書く(英語が母語ではない)英語作家の小説やエッセイを翻訳したときでした。
アフリカでは、ナイジェリア、ウガンダ、ケニア、ザンビア、南スーダン、ガーナといった国々の、当時新人に近かった作家たちの作品を翻訳し出版しました。この経験は、わたしにとって、アフリカとの心理的距離を縮める上で、とても大きな意味をもちました。
中でもウェブで(長編小説の一部を)出版し、その後、全訳してペーパーバックとKindleにより出版した、ニイ・パークスの『青い鳥の尻尾』(2014年)と、同じく本の一部をウェブで公開し、後に全訳してペーパーバックとKindleにより出版したアレフォンシオン・デン兄弟他の『空 か ら 火 の 玉 が ・・・<南スーダンのロストボーイズ 1987 - 2001>』(2014年)は、同じ年に2冊のアフリカ本を出したという意味でも、大きな出来事でした。
アレフォンシオンとニイとは、ごくたまにですが今もメールのやりとりがあります。どちらも本の出版契約時には、それぞれアメリカ、イギリスのエージェントを通していましたが、直接のインタビューなどを通して関係が深まった作家たちです。
そして今回、そのニイ・パークスが、葉っぱの新プロジェクトの構築に手を貸してくれました。ニイはイギリス生まれ、ガーナ育ちの詩人・作家で、イギリスの文学祭のプロデューサーを務めたりもしています。3年前のブライトン文学祭では、日本の作家、小山田浩子さんと交流があったと聞きました。
ニイには、コレクションに入れるアフリカの新進作家のセレクションを依頼しました。というのもニイはアフリカ人作家に贈られる短編小説の賞、Caine Prizeの審査員を務めており、アフリカ全土の作家をよく知っているからです。これほど最適な人はなかなかいません。ニイの方も喜んで引き受けてくれ、待ちに待った彼の選ぶ作家のリストも先週、手元に届きました。
パン・アフリカという言葉があるくらい、アフリカはある意味一つのカテゴリーを生成しています。文学(中でも英語文学)について言えば、母語ではない英語という言語によって、アフリカの作家たちが一つの大きなグループをつくっています。
英語という共通の言語によって、アフリカ各国の作家たちが国を超えて、互いの作品を読みあい、影響を与えあい、ケイン賞のような文学賞で競ったり、アフリカの文学祭で交流したりと関係を深めているようです。そこがアジアと少し違うところでしょうか。もちろんアジアでも、文学的な交流は近年活発化していて、通訳や今なら自動翻訳を通して、交流の障壁も少なくなっているとは思いますが。
しかしそれでも彼らが英語という共通語をもち、翻訳なしでアフリカ同胞の作品を互いに自由に読めるのは大きな利益に見えます。また「アフリカ」という国や政治を超えた「共同幻想的」な文学空間を彼らが手にしていることに、アジア人として少し羨ましさも感じています。
かつて日本の年配の方々が、【 英語は、「植民者が非植民者を支配するための帝国主義的言語であり、政治、経済、宗教、教育などを通して一方的に価値を押しつけてきた」ものである。英語の支配によって母語を奪われたアフリカ人は、言葉を消滅させられ、文化も破壊されてしまった】のように言っていたことは、いまどのように成り立つのか、再度、検証の必要がありそうです。
この考えには、【アフリカの人々はグローバルな世界に出ていくことはまずなく、一生アフリカ内にとどまって、アフリカの現地語のみを話し、現地文化を守りつづけ、世界の発展とは無関係に「未開のままで」「非文明国状態」でいることが幸せだ】と言っているようにも聞こえます。
このような理解が、この記事の冒頭で紹介したドリーン・バインガナの言葉(欧米の人々が、アフリカと言えば、飢えや戦争、悲劇的な話ばかり求める)につながっていくのかもしれません。
では、アフリカの現在地のリアルとはどんなものなのか。
これは地球上の他の非欧米側の国々にも言えることですが、ある意味、彼らは、「自分たちは進んでいて民主的」と信じて疑わない、日本を含むG7ほかの欧米諸国の驕(おご)りを冷静に見つめる目をもっている人々ではないか、そんな風にも思います。
アフリカの現在地はどこにあるのかを知るための、文学?
いや、そうではなく。新しいアフリカ文学を読み、それを書いた作家を知ることは、アフリカの現在地を知るためだけじゃない。
そうではなく、自分たち(欧米およびそれを世界標準とする国の人間)が自分のことを知るために、自分たちがいったい何者なのか、過去に、現在に何をし、未来をどうしようとしているのか、それを知るために必要なことなのかもしれません。
最後に、葉っぱの坑夫で以前翻訳した、アフリカの新しい世代の作品の中から、短編小説とエッセイの一部を一つずつ紹介したいと思います。
彼らの作品はどんな感じなのか、の入り口として。
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