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東川賞、すごいな! 写真賞を探索する

1週間くらい迷ったあげく、4950円の写真集を買ってしまいました。写真集は一般に高額なので、特別高いというわけではないけれど、普通の書籍に比べるとやはり高いので、買うまでにだいぶ迷います。

今回買ったのは高橋健太郎さんという写真家の『A Red Hat』(2020年8月、赤々舎)。これは写真集としても本としても、ずっしりと心に残る素晴らしい作品集でした。買う前の期待を裏切らない、それ以上の、期待以上のものでした。本と同名の写真展で、2020年度の東川賞 特別作家賞を受賞しています。詳しくは後ほど書きます。

実はその10日ほど前に、別の写真集を買っていました。『川島小鳥写真集 明星』です。こちらは少し前の出版物で、新刊ではなくマーケットプレイスで買いました(定価:3300円、購入価格:1067円)。川島小鳥さんの写真集は『未来ちゃん』を以前に買ったことがありました。ただ川島さんが木村伊兵衛写真賞をとっていたことは知りませんでした。賞と作家の組み合わせとして意外な気がしたのと、凝った造本という説明があったので、受賞作品である『明星』を見てみたくなったのです。(見出し画像、中央の本)

なぜ短期間にそんなに写真集ばかり買っているのかというと、日本の写真賞というものに興味をもったから。そのきっかけとなったのは、友人の写真家大竹英洋さんの『ノースウッズ─生命を与える大地─』が、この3月に土門拳賞という写真賞をとったことでした。(見出し画像、右の本)

土門拳という写真家の名前は知っていましたが、写真賞についてはよく知りませんでした。というか知っている写真賞といえば「木村伊兵衛写真賞」くらいなのです。それはこの写真賞が有名だからという以外に、(紙の)新聞をとっていたとき、朝日新聞をとっていたからだと思います。木村伊兵衛写真賞は、朝日新聞の主催です。毎日新聞をとっていれば、土門拳賞を知っていたかもしれません。

それ以外は?と聞かれたら、さあ、、、となるでしょう。写真集は、海外のものも含めてたまに買いますが、そして写真家の知り合いも何人かいるのですが、その割に写真賞についてはよく知りませんでした。

今回、友人が土門拳賞をとったので、そしてその最終候補作品にこれまた偶然にも、知り合いの小さな出版社の本が含まれていたこともあって、写真賞とはなんぞや、という興味がわいたのです。

Wikipedia日本語版「土門拳賞」の項目には、「木村伊兵衛写真賞が写真界の芥川賞と呼ばれるのに対し、土門拳賞はよく、写真界の直木賞と呼ばれることが多い」とありました。うーん、わかるようなわからないような。どちらも写真家本人は賞に直接関わっていないようで(木村伊兵衛写真賞は本人の死後創設、土門拳賞は本人が長期の昏睡状態にあったため)、新聞社が写真賞創設に際して、名前を冠したということみたいです。

木村・土門以外にどんな写真賞があるのかな、と探していて最初に見つけたのが「写真新世紀」という写真賞でした。これはキャノン主催のもので、サイトに行くと2021年度をもって終了します、と告知されていました。新人発掘や育成を目的とした写真賞のようでしたが、「近年はインターネットやSNSといった情報発信における技術革新が進み、個人が自由に情報を発信し、制作・表現の場がグローバルに広がったという社会的背景もあり」といった理由が書かれていました。今後の活動については未定のようです。

この理由、「個人が自由に情報を発信できるようになった時代」においては、写真賞の意味が変わった、あるいは意味がなくなった、ということなのでしょうか。なんとなくわかるような気もしますが。選考委員会があって、その中でノミネート作品が、専門家を含む審査委員に選ばれることに、どれほどの意味があるのか、とか?

写真に限らず、賞というのは、アーティストや作家にとって、世の中に名前が知られるきっかけとなる、という意味で大きなものがあるとは思います。ショパン国際ピアノコンクールなど演奏家のコンペティションは、世界を舞台に演奏活動をするためのきっかけとして重要なようです。西洋音楽やバレエなどのジャンルでは、近年は応募者の多くがアジア人だというところにも、コンクール参加の理由が表れています。ヨーロッパ、あるいはアメリカ出身の人より、アジアのパフォーマーのほうが、世界の舞台に出ていこうとすると、その道筋をつくるのが難しいということでしょうか。

さて話を写真賞にもどします。今回、いろいろ調べていて大きな驚きとともに発見した写真賞があります。それがタイトルにあげた「東川賞」です。まったく未知のものでした。東川が何を表すのかもわかりませんでした。東川というのは、北海道中部にある町の名前でした。この賞は、日本で初めて、自治体によって制定された写真作家賞、とのこと。

東川賞の何に驚いたかは次の5つ。
1. 町による賞の割に賞金額が大きく、また全5部門あるため総額も大きい。
2. 海外の写真家のための賞が設けられている。
3. 1985年創設以来、途切れることなく毎年行なわれている。
4. 選考規定が公開されており、各受賞の理由、受賞者の言葉、作品の画像などが紹介され、また創設以来の受賞者たちのアーカイブも整っている。
5. 対象となる各賞の規定が、国内、海外ともにユニーク。

一つずつ説明します。
1. 東川賞は現在、海外作家賞、国内作家賞ともに、賞金は各100万円。以下新人作家賞、特別作家賞、飛彈野数右衛門賞が各50万円で、総計350万円。ちなみに大手新聞社が主催する木村伊兵衛写真賞が100万円、土門拳賞が50万円なので、いち町村の賞としては破格かもしれません。

2. 海外の作家賞は、あまり知られていない海外の優れた写真家を日本に紹介する目的のようです。国内作家と規定が違い、「世界をいくつかの地域に分割し、年毎に、その対象地域を移動させ、やがて世界を一巡するものとし、発表年度を問わず、その地域に国籍を有しまたは出生、在住する作家を対象とする」ということのようです。よく考えられた規定です。

3. 創設と継続:木村伊兵衛写真賞が1975年、土門拳賞が1981年創設ということを考えると、東川賞の1985年というのはそれに次ぐ早さで、今も活発に行なわれ成果をあげているのは、いち町村ということを考えると簡単ではないように思われます。ちなみに「写真新世紀」は1991年スタートで30年目の今年で終了。

4. 選考規定の説明や過去の受賞作品のアーカイブという点で見ると、大手新聞社2社のものより、東川賞はより精度が高く、創設当初の受賞から今に至るまでPDFで詳しく知ることができます。ちなみに朝日新聞はWikipediaの「木村伊兵衛写真賞」の外部リンクが無効になっていて、検索しても賞について及びアーカイブのページが見つかりません。毎日新聞の方は「土門拳賞について」というページが毎日新聞の中にあり、歴代受賞者の紹介ページもありましたが、詳しく紹介されているのはここ数年で、それ以前はごく簡単な概要のみ(また、4.17日現在、歴代受賞者に今年の受賞者・大竹さんが更新されていない)。一般に日本の団体・組織は過去のデータの保存がなく、アーカイブも貧しいことが多いのを反映しているようです。その意味でも東川賞は、通常の日本型ではない思想とシステムを持っていると思われます。

5. 対象となる各賞の規定がユニークという点について。まず国内作家賞と新人作家賞は、「発表年度を過去3年間までさかのぼり、写真史上、あるいは写真表現上、未来に意味を残すことのできる作品を発表した作家を対象とします」とありました。他の写真賞は、年次ごとに前年の作品から選ばれていると思います。過去3年間の作品としているのは、写真家にとっては選ばれるチャンスが増えるのではないでしょうか。特別作家賞は、地元北海道の出身者&在住者、または北海道をテーマにした写真が選考基準のよう。飛彈野数右衛門賞は、東川町出身の写真家の名前を冠した、(北海道に限らず)地域の人や自然、文化を撮りつづけ、地域への貢献が認められる作品への賞とありました。

いかがでしょう。わたしは東川賞の規定やアーカイブを見て、そして今年の受賞者の紹介ページを見て、これは大したものだな、とまず感心したのです。小さな町による賞であっても、従来の新聞社のものに負けてならないという気概が、創設当初からあったのでしょうか。それにしてもそれを36年間、続けているのは見事としか言いようがありません。いったい誰が中心人物なのだろう、と。市町村長の任期は、通常4年。毎回刷新されれば、9人の町長が東川賞に関わったことになります。

ここからは今年の特別作家賞に選ばれた高橋健太郎さんの『A Red Hat』について。北海道に関係する作家、あるいはテーマに対する賞です。
高橋健太郎さんは1989年、横浜生まれ。大学卒業後スイスの写真家Andreas Seibertについて写真を学び、New York Times、Le Mondeなどに寄稿、2013年より自主プロジェクトを続けている、という写真家です。

写真集『A Red Hat』は、最初のページを開いたところから、1ページずつじっくりと時間をかけて見ていきました。厚手のボード紙の表紙には、通常の写真集のように写真作品がありません(見出し画像、左の本)。グレーの無地に白と赤の文字で、A RED HATとあるだけ、右下にこれも欧文でKentaro Takahashiと白の文字がありますが、背表紙、裏表紙には何もありません。タイトルのところに斜めの線が一本入っています。これは「検閲」を意味している、とデザイナーは説明しているそうです。この写真集の内容から来るものでしょう(後述)。

本をひらくと、写真集の内容を示すテキストが二つ(一つは被写体の人による過去の手記から、もう一つは著者による出来事の簡単なあらまし)、イントロとして置かれていました。そこから先は写真のみのページで構成され、キャプションはまったくありません。ただ、ページを繰っていて感じたのは、ときおり出てくる白紙のページが、見るときのテンポやリズムをつくっているということ。単に白紙ページによって内容を区切るというのではなく、白紙によってつくられるリズムに意味があるような感じです。それがなかなか気持ちいい。これは写真家の意図なのか、デザイナーの設計なのか。

同名の写真展を本にしたもののようですが、写真のセレクトや順番はふつう写真家自身がやるものだと思います。では白紙ページの入れ方は? どのように編集が進められたのか、興味が湧いてきます。ちなみに本のデザインは、日本にもオフィスをもつ、スイス人デザイナー二人組「so+ba」の手によるもの。写真家本人のセレクトだそうです。

本文に入ってから最初の写真、それは写真の対象になっている菱谷良一さん(98歳)のクローゼットの中(色とりどりのネクタイやジャケットなど)、とその内側の鏡に映る菱谷さんの横顔。わたしはこの最初の写真で、心をすっかり持っていかれました。なぜなのか。よくはわかりません。ぼんやりと自分の父のことを思い出したりしていました。

映像というのは、その中身と直接の関係なく、連想をもよおさせることがあります。わたしの場合、映画に引き込まれているとき、たまに起こります。

菱谷さんは画家なのですが、自宅アトリエの写真にも目が惹きつけられました。大量の絵筆と絵の具、部屋いっぱいの絵が描かれたキャンバス。もう一人の写真の対象である松本五郎さん(99歳)のアトリエは、頭部の彫像が置かれた本の並ぶ書棚、イーゼルと絵の道具、と知性漂う空間で、そこに座る松本さんがここまでいかに生きてきたか、いかに今を生きているかが伝わってきます。この二人のアトリエ、今もつかわれている仕事部屋に心動かされるのは、彼らが師範学校時代から絵を描き、その「絵を描いていた」ことによって、治安維持法違反の罪で、当時の特高警察に捕まって収監されたという事実があるからです。1941年に起きた「生活図画事件」と呼ばれているものです。

高橋健太郎さんは、2017年、「テロ等準備罪」が国会で成立したことをきっかけに、「生活図画事件」で逮捕された北海道在住の菱谷さん、松本さんのことを知ります。そしてフリーランスで写真を撮る自分も、こういった社会規制と無関係ではないと感じ、彼らの話を聞きに北海道に飛びます。過去の事件を撮影することはできないので、現在の二人の暮らしぶりを撮るため、その後3年間、北海道に通いつづけます。これが『A Red Hat』の成り立ちです。

この写真集の素晴らしさ、なぜ自分が1枚1枚の写真に見入ってしまったのかを言葉で説明するのはとても難しいです。菱谷さん、松本さんの二人が、絵を描くという一つのことを一生のこととして続けているその迫力や重み、そこに関わる高橋さんという孫くらいの世代の写真家が二人のいまを見つめる視線、写真を撮ることで生まれた写真家と被写体二人の結びつき、そういったものが、北海道という北の地の季節ごとの風景を織り交ぜながら語られていく、ドキュメントでもフィクションでもない、独自のストーリーの紡ぎ方に惹かれた、というのが一番近いかもしれません。

この本の後半には、35ページにわたる資料編とも言うべきテキストと画像が付加されています。菱谷さん、松本さんの師範学校時代の写真もあります。高橋さん自身によるテキストに加え、宮田汎さんという「生活図画事件」を長年調べてきた研究者の文章、当時の新聞記事、写真でしか残っていない(警察に押収されたため)菱谷さん、松本さんの学生時代の絵など、豊富な資料を読み、見ていくことで、このストーリーの全体像がクリアになり、写真でうけた感銘の上に、起きたことのリアリティがずっしりと積み重なっていくのを感じます。

「生活図画事件」そのものに特別な興味をもったから、というより、このような過去の出来事をいまの目で捉え、それを真摯に追っていくその行為、その的確な方法論、そこのところにわたしは強い関心をもったのではないかと思います。

このような、人が生きる意味を問う、心に重く残る写真作品を、東川賞は今年、特別作家賞として選んでいます。北海道に関係のある作品ということにとどまらない、非常に優れた写真を選んでいるなと思いました。

『A Red Hat』は資料集が付加されているという意味でも、一風変わった写真集かもしれません。写真はビジュアル作品なのだから、感性のみに訴えた方がいい、という考え方もあるでしょう。写真にキャプションを付けるかどうかや、作家のエッセイなどを入れるかどうか、など写真集の編集において、テキストと写真の関係は一つの課題になります。

写真集における写真とテキストの関係性については、機会を改めて書いてみたいと思っています。

最後にもうひとつ、高橋健太郎さんの次の作品プランを聞いて、思いつくことがありました。2年後の2023年は関東大震災から100年目にあたることから、1923年の震災の際に起きた「朝鮮人虐殺事件」をテーマにしたいと高橋さんは語っていました。在日朝鮮人やアフリカ系の人へのヘイトは、昔のことではなく、いま現在の問題でもあります。『A Red Hat』が「テロなど準備罪」と昔の「生活図画事件」を結びつけたように、100年を挟んだ二つのヘイトを、写真という手法で結びつけ、考えようとしているのでしょう。

そこで思ったのは、関東大震災は昔の出来事で、それをいま写真に撮ることは不可能です。これは「生活図画事件」と同じです。過去の出来事を写真のテーマにするというのは、ある意味「非写真的」です。昔ながらの考えでは、中でもシリアスな報道写真においては、写真家がその現場にいることに価値があるとされてきました。だから多くの写真家はベトナムへ、イラクへ、アフガニスタンへ、シリアへと向かいました。場所の移動であり、時間の共有です。

しかし高橋さんは過去という追いつくことのできない事象を捉えようとしています。それは何故なのか、と考えたとき、「写真というメディアを、思考するための道具として使う」という、写真にとっての新しい方法論を試そうとしているのではないか、と思いつきました。目の前で起きている出来事を記録し、それを多くの人に伝える、というアプローチではなく、すでに終わった過去の出来事を追うことで、現在の状況をより深く考察するというやり方。

写真は「いま」を撮るだけではない、過去や未来も撮るのだ、という考えが、高橋さんの中にあるのかもしれないと想像するのです。もしこれが当たっているとしたら、写真というメディアにとって、あるいは写真家の役割において、未来にむけて新たな局面をひらく一歩になるのではと思います。


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