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[エストニアの小説] 第7話 #3 冬の到来:船を待つ船乗り(全10回・火金更新)

 ヤーノスが出ていくと、ニペルナーティが楽しそうに言った。「うぬぼれ屋のヤーノス・ローグ、わたしはあいつが嫌いだ。わたしがペイプスから来たなどと誰から聞いたのやら、漁の網を引くって? ペイプスなど行ったことがないし、漁師の網がどんなものかさえ知らない。わたしは船乗りだ。船からの呼び出しを待ってるんだ。すぐにわたしは遠い外国へと旅だつ。そうすれば放浪も終わる。だけどそれまで、わたしはシルバステで丸太を積む仕事をするつもりだ。わたしは住む場所がない。揺れる荷船で寝るのは嫌なことだ。真夜中に船酔いで目覚めることだってある。で、陸にあがることになり、海岸をうろつく、雨や雪の中を冷たくなって、気分がよくなるまで歩く。それで荷船に戻る。だけどこれって酷いことじゃないかい? わたしは年をくった船乗りだ、何十年と波を切って海を渡ってきた。だが、揺れには耐えられない」
 「なんでどこかに寝る場所を見つけないんだ?」 老漁師が尋ねた。
 「その時間がない」とニペルナーティ。「だが、いま、それを手にしたい」
 ニペルナーティは10日分の給料を老漁師の目の前に置いて、こう訊いた。「わたしに寝場所と食べものを提供してくれないかな、この金で。次の土曜日にはまた金を支払う。わたしは船から呼び出しがくるまで、この海岸で待っていなければならないんだ。だがそれまで、わたしはシルバステで働いている。いや、いや、いいんだ、何も言うな。この金はささいなものだ、だがわたしは多くを望まない。ストーブのそばの小さなベッドがあればいい。わたしがマレットの邪魔になることはないだろ?」
 「こりゃ、大金だ」と老漁師。「こんな大金、長いこと見たことない。見れるわけがない。俺は年とった、網は破れているし海に出ても遠くまでは出ていけん。前に、夏のことだが、絵描きがここに滞在して海や漁師の絵を描いていた。だが、その絵描きだって、こんな大金は払わなかった」
 「そうか、わかった」 ニペルナーティはそう言うと、ツィターを取り上げ、楽しそうに弾き出した。

 風と雨に打たれて、マレットが小屋に飛び込んできた。父親のそばに見知らぬ男がいるのを見て、びっくりして立ち止まる。「うちの新しい借家人だ」 そう父親が説明した。「船乗りだそうだ、船からの連絡を待ってる。それまでこの海岸にいることになる。恐がる必要はない、マレット、この人はヤーノス・ローグとは違う」
 マレットは見知らぬ男をチラッと見ると、奥の部屋へと姿を消した。この娘は落ち着かない様子で部屋を歩きまわり、ニペルナーティの弾くツィターを聞いていた。父親は早々に床についていたが、ニペルナーティはまだツィターを弾いていた。
 それから奥の部屋をノックすると、中に入っていった。
 「わたしを恐がらないで、マレット」 にっこり笑ってそう言った。「海辺できみが風とかけっこしてるのを見たよ。おさげ髪がゆるんで、風下で両手を翼みたいに広げていた。もしかしたらわたしに気づいていたかな。わたしは仕事も家もなく、海辺をブラブラしていたからね。夜になって、落ち葉を集めて自分で寝床をつくったとき、次の朝、きみはそれをあちこちに散らしただろ。だからわたしは何度も何度も、寝床を作り直さねばならなかった。それともあれは風だったのかな、きみじゃなくて。だけど落ち葉は運ばれて、誰かのひざから振り落とされたみたいだった。落ち葉が通った跡は海へと向かっていた。前にここのドアをノックしたことがあったけど、きみはわたしと話したくなくて、ドアをバタンと閉めた、一言も口をきかずにね。それでいま、わたしはきみの小屋にいる、きみの父さんは友だちだ。怒らないで、マレット、わたしはただ中に入れてくれるか、それとも森に戻らねばならないか、聞こうとしただけだ」
 「あんた、ヤーノス・ローグと来たの?」 マレットが尋ねた。その声は震えていた。
 「あいつと一緒に来たけど、友だちでもなんでもない」とニペルナーティ。
 「あいつは嫌なやつだ」 マレットが言った。「あいつは父さんの網をズタズタにしたし、魚をとったし、いつもあたしたちを困らせる。あいつはあたしたちを貧しくてみじめな人間と思いたい、それであたしたちは乞うはめになる。そういつも父さんに言ってる、だけどそれを信じない。あたしがヤーノスと結婚したらいいと思ってるくらいなんだ」
 マレットは怒りと軽蔑をこめて笑った。
 「きみの父さんの網を修繕しよう、漁の手伝いをしよう」 ニペルナーティが言った。
 「あんたが?」 マレットが可笑しそうに声をあげた。「だけどあんたは漁師ですらないし、海に出たこともないんだろ。船乗りはあんたみたいな歩き方をしない」
 「おやすみ!」 唐突にニペルナーティは言うと、ドアをバタンと閉めて出ていった。

 シルバステの港の仕事は終わった。丸太を積んだ荷船は出ていった。作業員はみんな、どこかよそに仕事を探しに出ていった。ニペルナーティだけが、仕事探しをやめた。老漁師の小さな小屋に住み、網や舟を修繕し、今は小屋で何か書いている。嵐は去り、雪がときどき舞い降りて海岸や森を覆う日があった。それから少しして、木々の枝はふんわりと雪に覆われ、ジュニパーの茂みは白い子羊みたいになった。凍るように寒い日がつづき、シルバステの湾に薄い氷が張りはじめた。海風が氷を割り、波が岸辺にその破片を押し流した。もう冬は間近だった。漁師たちの船は裏返して浜辺に置かれ、漁の季節は終わった。

 ヤーノス・ローグが、ある日、マレットの小屋にやって来た。ヤーノスは白い羊皮の上着を着て、暖かそうなフェルトのブーツを履いていた。手には斧とのこぎりを持っていた。しかしヤーノスは小屋の中には入らなかった。ドアの外に立ち、待っていた。そして老漁師が急いで出てくると、高飛車にこう言った。「丸太を切りにヨストーセの森に行く、いい仲間を見つけてな。ペイプスから来た穴だらけの靴をはいた風来坊とは違って、若くて強いやつだ。そいつと100年の巨木を切り倒すのは楽しみだ。だけど、いいか、爺さんよ、あの無宿者にあいつがここにいるのは気にくわんと伝えてくれ。もうここを出ていく時だろうが、オレのガールフレンドから離れてろってな。二人が浜辺にいるのを見たんだ、ちっぽけなスズメみたいに雪の中を飛びまわってた。こう伝えてくれ。次の日曜にオレがここに来て、まだここに留まっているとしたら、あいつに思い知らせてやらねばな。で、マレットにはあいさつと、気をつけろと伝えてくれ」
 ヤーノスは斧を肩にかけ、のこぎりを脇にはさみ、ブラブラと出ていった。

 ニペルナーティはヤーノスの脅しの言葉を聞いていたが、特に注意を払わなかった。厳しい、生真面目な顔つきで黙り込み、数日間、一言も口をきかないこともあった。年老いたように見え、悲しみと不安な目つきで、海辺が白い雪に覆われていくのをじっと見ていた。ツィターも部屋の隅に置いたままで、マレットがはしゃいだり笑ったりしても、ニペルナーティが元気を取り戻すことはなかった。
 「わたしも、ここを出ていくときがきた」 悲痛な声でそう言った。「わたしは渡りの最後の1羽、まだここに残ってる。川や湖が氷に覆われたら、わたしの歌も終わりを迎える。クマのように冬ごもりし、腕はダラリと垂れ下がる。あー、マレット、夏は行ってしまった、秋も行ってしまった、この先どうして、きみの美しさや若さを讃美できようか。神さまはもう、わたしを丸々冬の間、骨壷に投げ入れるだろう、そこでわたしは、次の春が来るまで、朽ちていくだろう。なぜきみと春に出会わなかったんだ、マレット」
 「あんた、船から一つも手紙をもらってない」とマレットが笑った。「どこかの浜辺でニペルナーティが待ってることを、忘れてしまったんだ」
 ニペルナーティは微笑み、ぼんやりした目つきでこう言った。「でも、きみは浜辺で真珠を見つけてないだろう? いつか浜辺で真珠の山を見つけることを夢見ている、沈没船から波に運ばれた真珠をね。今も日に何度もそれを見にいく、海が夢の宝物を運んできてはいないかとね。どれだけ長いこと、きみは自分を騙し続けて、その空っぽの夢の中で生きようとしてるんだ? ヤーノスと仲良くした方が、まだ理にかなってないか?」
 「ヤーノスのことは言わないで」とマレット。「あの男のことで、なんであたしを脅すの? だけど真珠を見つけるのは、ただの夢じゃない、あたしは強く信じてるんだ。海はあらゆるガラクタを浜辺に持ち込む、沈没船のあちこちの部分を流してくる。どうして真珠とか宝物を運んでこないって言える? そうすればあたしは豊かでいい暮らしができる。そうしたらニペルナーティだって、もっとあたしに丁寧な口をきかなくちゃね。この浜辺に自分で宮殿を建てる、そして何千もの輝く窓ガラスが、灯台みたいに海を照らすんだ。そうすれば、どこにいようとその灯りを見つけてここに来ることができる。それでその灯りのまばゆさと美しさに目をくらませて、あんたがあたしの家の前にやって来たら、入り口に迎え出てこう言うの。『さあ、ここに滞在してちょうだい、年老いた船乗りさん』」
 ニペルナーティはマレットの手をとる。冬の空からの最後の太陽の輝きであるかのように、その手を感じるのだった。

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'The Queen of Sheba' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


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