小説の中の結合双生児:直近の芥川賞作品から江戸川乱歩まで
朝比奈秋さんの『サンショウウオの四十九日』が先月、芥川賞に選ばれました。癒合(結合)双生児の姉妹の物語です。この発表があったとき、わたしは「新世代作家が描く小説のいま From Africa!!!」というプロジェクトで、同じ題材による短編小説を翻訳していました。それで朝比奈秋さんの小説がどのように書かれているか、興味が湧きました
Title photo by love_K_photo (CC BY-NC-ND 2.0)
癒合双生児とは、一卵性双生児がお母さんのお腹の中で分離せず、体の一部が結合した状態で生まれる双子のことです。
ロリとジョージ(ニューヨークタイムズ・2024年)
芥川賞より少し前(今年の4月)に、ニューヨークタイムズの記事で、ロリとジョージ・シャッペルの姉弟(ロリは女性、ジョージはトランス男性)が死亡したという記事を読みました。これは小説ではなく実話です。ちょうどその記事が出たとき、『癒合:Fusion』の翻訳準備に入っていたので、興味をもって記事を読みました。ロリとジョージの二人は頭部で結合していましたが、脳は分離して二つだったようです。ロリはボーリング選手として活躍し、ジョージはカントリーシンガーとしてステージに立っていました。双子だけれど性格も違い、互いを尊重しあっていたそうです。ジョージがステージに立つときは、ロリは他のファン同様チケットを買い、舞台上では目立たないようおとなしくしていた、とのこと。
最初この記事を読んだときは、どういうことなのか理解が進まず、つまり記事は二人の人間が独立して生きているように書いていたので、でも体は一緒のはず…… と不思議な感覚に囚われました。
しかし後になって考えてみると、そのように描写することこそ、正しい記事のあり方だったとわかりました。
ある出来事に対して、どのように対峙し、どのように記述するかは文学に通じることでもあり、いつも興味をもって接しています。
カメルーンの双子の物語『癒合:Fusion』(邦訳・2024年)
わたしの訳したカメルーンの作家、ハワード・メフブの『癒合:Fusion』は、男の子の双子の物語です。賢い男の子二人で、学校ではクラスのニュートンだったとありました。おそらく腹部のあたりで結合があり、足は二人で3本でした。地域の学校イベントでは、他の生徒を従え、先頭に立って高々と校旗を掲げて行進し、見物人から拍手喝采を受けています。
感動的な描写はたくさんあるのですが、ここでは二人がシャワーにはいるシーンを紹介します。
この兄弟は最終的に分離手術を受けて、一人に一つずつの体を生きるようになります。分離後の困惑は次のように表現されています。
朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(2024年)
一方、『サンショウウオの四十九日』で、双子の一人である瞬は次のように言います。瞬は一人で一つの体を生きる人を「単生児」と呼んでいます。
「自分の体は、自分のものでもない」? 難しい。瞬の持論によると、医者や科学者は意識と思考を同一視しているけれど、意識はすべての臓器から独立しているとのこと、脳からも。
意識とは、思考とは。思考は脳でするもの、では意識とはどこで発生しどこに所属しているのか。
瞬の思考と杏の思考は、脳が二つだから違うものだとして、脳から独立している意識は? たとえば片方が自分の管理下にある手を動かしたとき、もう片方は向こうの手が動いたな、と感じる。それは脳ではなくて意識による認識、自分の脳とは関係なく、意識によって感知された、そういうことなのか。
この小説では、こういったことが延々と書かれていたりします。考えたことのない、意識と思考の分岐点(それがあるとするなら)。
一方、カメルーンの双子たちはこう言います。
わたしたちは分かちあうために生まれてきた、とはどういう意味だろう。
こんな風に考えていくと、一人の人間が一つの体で生きていくことの意味とは? 二人の人間が一つの体で生きていくこととの違いはどこにあるのか?という疑問が湧いてきます。
『サンショウウオ』の引用文にある、「自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない」とつながるような気もする。
サラ・クロッサン『わたしの全てのわたしたち』(邦訳・2020年)
まわりが強く勧める分離手術の意味がわからない、と言う結合双生児もいると聞きます。なぜこの状態ではいけないのか、と。
サラ・クロッサンの小説『わたしの全てのわたしたち』(原題:One)では、主人公の女の子二人は最終的に分離手術をすることになります。でもそれは自分たちの命を守るためでした。
これは担当医の最終的な診断時の言葉。そのときの当人たちの反応。
ティッピ「離れるなんて嫌。くっついたまま、今のままでできる治療をしてほしい。(中略)できることは全部やってほしい。私たちをまず、引き離そうとするのはやめて」
グレース「先生が正しい、そして、私が悪い。すべてが私の心臓のせい。先生の出した解決策は、間違っていない。やってみよう、ティッピ」
この小説は散文で書かれていますが、詩のような形式(分かち書き)で多くの改行により、空白とともに言葉が紡がれています。訳者の一人、詩人の最果タヒさんは、あとがきで次のように書いています。
この作品の翻訳は二人の訳者によってなされています。この本を見つけてぜひ出版したいと思った翻訳者の金原瑞人さんが、英語から日本語に訳し、それを最果タヒさんが詩作品として書き直し完成させる、というスタイルがとられています。
最果タヒさんのあとがきに、
わたしはわたしであり、けれど「わたし」だけではない、という感覚を、私も知っている、と思った。
とあり、それは
「わたし」というものが常に曖昧で、自分自身でさえそれをはっきりと認識できないんだということは知っている、(後略)
からだという。
このあたりの感覚、つかみようのない、だけどぼんやりとわかる気がする、「わたし」とは何か、「わたし」はどこにいるのか、どれが「わたし」でどれが「わたし」ではないのか、この認知にまつわる感覚と、結合双生児が置かれている状態を想像してみるなら、この「特別な状態」がけっして彼らだけの問題ではない、とわかり、人間とはどのように一人ずつ成立しているのか、ということに関心が向いていきます。
ここまでの3作品は、すべて双子当人によるモノローグの形で記述されていました。これが今の時代の結合双生児を表す最も適切な方法、ということなのかもしれません。
江戸川乱歩『孤島の鬼』(1929年)
では古い時代の小説ではどのように表されているのでしょうか。江戸川乱歩とエラリー・クイーンの小説を見てみたいと思います。どちらも題材として結合双生児が扱われていて、ミステリー小説です。主人公ではないですが、どちらも重要な役割をもって登場します。
まず江戸川乱歩の『孤島の鬼』。この小説では、小説内小説のような形で、双子の一人の手記が独立して挟まれています。双子は赤んぼうのときに、島の主である悪者に捉えられて、土蔵の中に閉じ込められて生きてきました。
面白いのは、まったく違った事情からですが、ここでも一つの体に生きる双子が、一つの体に一人で生きている人間を奇異に思う、という逆転現象が起きていることです。
冒頭で引用したように、どのようにして結合双生児が生まれるかをみると、たった3日間くらいの差で、一つの卵が人間の形をとるとき、分離するか分離しないかでその形態がきまるわけで、一卵性双生児には形状の分離、結合の差を超えて「単生児」にはない特別な親和性があるのかもしれない、と思えてきます。とすると、、、からだが一つか二つかの問題は、実はそれほど重要でない、とか?
ネタバレになるので省きますが、この江戸川乱歩の小説に登場する結合双生児は、他の小説の双子たちとは少し事情が違っていて、そこに二人の出自の秘密があります。
こういった古い時代の小説の場合、「異形」と見られる人間に対する偏見や見下し、あるいは存在への恐怖感が描かれているかもしれない、と思って読んでいたのですが、それは全くありませんでした。
エラリー・クイーン『シャム双生児の秘密』(1933年)
同様に、エラリー・クイーン(この筆名を名乗るダネイとリーの著者は、どちらも1905年生まれ)の『シャム双生児の秘密』も1933年と古い作品で、「異形」に対しての描写がどのようなものか、興味がありました。当時の社会風潮を想像すれば、ジャンルがミステリーでもあり、おどろどろしく書かれている可能性もあると思ったのです。
結果はまったく違ったものでした。作家という人々の見識は、一般人とは違って社会通念を超える、広い視野があるのでしょうか。
冒頭にエラリーの父である警視が、夜中にちらりと見たものの姿を「まるでーーー蟹みたいだった」と、双子のことを描写していますが、そこを除けばあとはごく普通に、賢く美しい少年として描かれています。
いくつかの文例を以下に引用してみます。
この小説で、結合双生児についての医学的な説明がなされていることも、この時代の作品としては新しいのかもしれないと感じました。
まず双子本人も、自分たちの体の状況について興味をもち、積極的に語る姿勢を見せています。「剣状突起融合体」などという専門用語も口にしています。
こちらは登場人物の一人、ホームズ博士という医師の言葉。
このようにオープンに、専門用語も使いながら、結合双生児の体の状態をそこにいる人間の前で語る、というシーンからは、暗く閉じた隠すべきもの、あるいは呪われた存在のようなニュアンスは汲み取れません。
20世紀初頭という1世紀前の小説、それもエンターテイメントのカテゴリーの作品ながら、結合双生児というテーマをごくまともな態度で扱っている印象を受けました。
これが最新の芥川賞作品から、1世紀前に書かれたエンターテイメント小説まで、作家の国籍や言語も日本、アメリカ、カメルーンと分かれる5作品を読んで受けた感想です。
蛇足になりますが、江戸川乱歩の『孤島の鬼』を読んで興味をもち、小説内手記の部分の英訳をいま試みています。文章量は小説全体の約10分の1、16000字ほどで短編小説くらいの長さがあります。言葉つきは古い時代のものですが、理解に困ることはさほどありません。半分遊びの気分ですが、DeepLやGoogleの力も大いに借りて、さらには英語ネイティブの助っ人校閲も頼んでと、あんがい真面目に取り組んでいます。