VI. 失敗、そして成功
・ローマ大賞の歴史
・最初のコンクールと2等賞
・さらなるコンクールと最後の落選
・『水の戯れ』
・弦楽四重奏
・『シェエラザード』、三つの歌
パリ国立高等音楽院で最重要とされるローマ大賞を、ラヴェルが受けようと決めたのは、ガブリエル・フォーレのクラスで4年近く学んだ後だった。
1666年、フランス政府の援助のもと、フランス・アカデミーはローマに、画家、彫刻家、建築家のための教育施設を設立した。ナポレオンが権力を握ったとき、音楽部門がそこに追加され、ローマ大賞の裁定がパリ国立高等音楽院に任された。
毎年、パリ国立高等音楽院でコンクールが行なわれ、受賞者は4年間の奨学金とローマはピンチョの丘にあるヴィラ・メディチに滞在する権利を得た。その間、受賞者はフランス政府の支援で生活をし、作曲に専念することになる。そこでは「ローマからの出品」と呼ばれる作品の提出が求められた。
この賞の志願者は、最初に予備選を通過しなければならない。予備選通過者は隔離された場所で、審査員によって選ばれた詩をもとに音楽(カンタータ)をつくる。制作期間(通常4週間くらい)が終わると、志願者の作品は公開の場で演奏され、賞が授与される。
フランスの著名な作曲家の多くがこの賞を受賞していた。ベルリオーズ(1830年)、グノー(1839年)、マスネ(1863年)、ドビュッシー(1884年)、ビゼー(1857年)、ギュスターヴ・シャルパンティエ(1887年)、アンリ・ラボー(1894年)、フローラン・シュミット(1900年)、ポール・パレー(1911年)、マルセル・デュプレ(1914年)、ジャック・イベール(1919年)などの人々だ。面白いことに、ここ20年間(イベール以降)は受賞者で著名になった人はいない。
1901年の春、音楽院の掲示板にはいつものように告知がなされた。
毎年、審査員たちは参加者がロッジに籠って書いたカンタータの中から、一つ優勝作品を選ぶ。1901年は、ファルナン・バイシェ(1858〜1936年)の詩「ミルラ(没薬)」が題材に決まった。
フォーレとエミール・ペサール(1866年のローマ大賞受賞者)のもとで学んでいたラヴェルは、1等賞をとることに強い期待をもっていた。受賞による賞金は自分にとっても家族にとっても大きな意味があったが、ローマの美しいヴィラ・メディチで、才能あふれる若手芸術家とともに、4年間過ごせることは、ラヴェルにとってさらなる重要性があった。当時住んでいたパリのペレール通りのアパートとは、静けさや環境の点で大違いの場所で仕事をしたかった。
ラヴェルは1901年5月に予備審査を通り、4人の志願者とともに「ロッジ」に籠った。この期間にコンピエーニュ宮殿で撮られた興味深い写真がある。ラヴェルは階段の一番上のところに一人離れて立ち、上品なベストを身につけ、お気に入りで身を固めている。他の志願者たちがあまりかまわない格好でいるのと対照的だ。
「ミルラ」の作曲に、ラヴェルは熱意をもって取り組んだ。音楽が流れる水のようにペン先から溢れた。友人のルシアン・ガルバンへの手紙に次のように記している。「とても面白いことが起きているよ。わたしには音楽の蛇口があるみたいで…..だから音楽が苦労なく流れ出てくるんだ」
ラヴェルは誰よりも早く、作品を仕上げていたけれど、期限ぎりぎりまで、それをオーケストラ化しようとしていた。ラヴェルにとって「時間」というものが重要な意味をもったことがなかった。それについては抜きん出たものがあって、その性格は、生涯、友人たちの怒りを呼び、消えることがなかった。この点において、ラヴェルは遅延の責任を取らねばならない。少なくとも、最初のローマ大賞のときの失敗に関しては。ラヴェルは次のように過失を認めている。
「一番に課題の作曲を終えてはいたが、オーケストラ化するために時間をギリギリまで使っていた。その結果、どちらも放棄するはめになった」
未完成のオーケストラ作品とは別に、ラヴェルの提出作品には、審査員の考えでは、別の大きな欠点があった。詩作品「ミルラ」は感傷的に出来事が書かれているのに対し、ラヴェルは音楽の一部を茶化さずにはいられず、オペレッタの様式でのっそりしたワルツを用いた。審査員の中の何人か(マスネを含む)は、面白さを感じ、ラヴェルの作品を1位に押した。しかし多くの審査員は、重要な出来事、真面目なテーマへの尊敬の念がないと立腹した。そして第1位をアンドレ・カプレに与えた。ラヴェルは第2位となり、金メダルを得ただけで、奨学金はもらえなかった。「またやればいい」とラヴェル。「それだけのことだ」
ラヴェルはローマ大賞を1902年、1903年と受けている。しかしカンタータ「アルシオーネ」「アリッサ」いずれも報われることがなかった。ラヴェルの友人たちはこの結果に憤りを感じた。フォーレでさえ怒りの言葉を口にすることをためらわなかった。このときまでに、ラヴェルは最も将来性のある若手作曲家の一人として認められ始めていた。
その2年後、30歳という応募期限の年齢に近づいていたラヴェルは、ローマ大賞への最後の試みをした。このときラヴェルは、予備審査さえ通らなかった。作曲家のオリジナリティよりクラシック音楽の伝統の方が重要とみる審査員たちは、ローマ大賞で認めるには、この新進の若い作曲家の急進性は危険であると判断した。審査員の独善的な決定により、パリの音楽界に抵抗の嵐が吹き荒れた。多くの者がこの論争で「ラヴェル事件」に味方した。小冊子が印刷され、新聞もラヴェルの味方にまわった。審査員には偏向があると非難され、このスキャンダルによって、音楽院の院長であるデュボアが退任に追い込まれた。そしてフォーレがそのあとを継いだ。著名なフランスの作家ロマン・ロラン*は以下のような異議申し立ての手紙をM.ポル・レオン(1874〜1962年、フランスの大学教授、史料編集家)に送った。
「ラヴェル事件」をめぐっての論争は、中でも若い音楽家たちの間でのモーリスの人気上昇のきっかけとなった。彼らはこの問題は、昔ながらの伝統に縛られた保守的な考えと、自由で偏見のない新しい見方の衝突であると感じていた。
ラヴェルだけが、この騒ぎに無関心のように見えた。しかし実際には深く傷ついており、後にフランス政府がレジオン・ドヌール勲章を申し出た際、それを受けようとしなかった。3度、申し出があったにも関わらず、音楽院を支配下に置くフランス政府が自分にかつて屈辱を与えたことを忘れず、勲章の授与を拒否した。
1901年、最初のローマ大賞に志願した同じ年、ラヴェルは最もよく知られた楽曲を作曲している。まず一番目にピアニストとして、次に作曲家として、少なくとも初期の時代には、ラヴェルは自分の選んだ楽器(ピアノ)で曲を書くことを好んでいた。『水の戯れ』は、ごく小さな存在として地上に現れたが、花火のようなきらめきを見せた。「水にくすぐられて笑う河神」ではじまるアンリ・ド・レニエによる詩が、ラヴェルのイマジネーションに火をつけた。主題は卓越した書法により展開を見せ、新たなピアノ・テクニックの基礎を築いた。『水の戯れ』は虹色の噴水と水面を打つ滝の輝きをまきちらし、川の神が水にくすぐられて笑うのだ。ラヴェルはこの作品について、次のように語っている。
このとき、ラヴェルはまだ26歳、自分の作品の価値をほとんどわかっていなかった。『水の戯れ』が世界的に重要な作品となることなど想像もしていなかった。版元のドゥメ社に著作権は必要ないと言い、その結果、米国では、この作品のたくさんの版が出版された。
1902年、リカルド・ビニェスが、この曲と『亡き王女のためのパヴァーヌ』を国民音楽協会のコンサートで演奏した。このときは、聴衆はラヴェルの曲を楽しんだ(熱狂的ではなかったとしても)。この若い作曲家はここにきてやっと評価されたのだ..….
この人気の潮流は大きなものとなり、1904年、弦楽四重奏曲がエマン四重奏団によって初演された。ここで批評家たちもついにラヴェルを好意的に受け止め、この作品を名作であると持ち上げた。ロラン=マニュエルの最初のラヴェル研究書では、次のように述べられている。
この四重奏曲は四つの楽章からなり、そのどれもが詩的な美しさに満ちた旋律で埋められている。最初の三つの楽章は、繊細さと優しさが織り込まれたものだが、最後の楽章は素晴らしい活力と熱情あふれる箇所を含んでいる。
弦楽四重奏曲はフォーレに献呈されたが、ラヴェルの「敬愛する師」であるフォーレは、当初、この作品の質を評価しなかった。フォーレはこの曲に厳しい評価を与えた。特に最終楽章はまとまりに欠け、短すぎると。それに対してドビュッシーは、若き作曲家に賛辞を送り、こう書き記した。「神の名、そして私自身の名のもとに、あなたの四重奏曲に一つの変更も加えてはならないと言いたい」
『シェエラザード序曲』は成功しなかったものの、ラヴェルの『千一夜物語』への興味は、トリスタン・クリングソルの新しい詩によってよみがえった。この才能ある若いフランス人は、本名をトリスタン・ルクレールといい、ロシアの東洋的な魅力のとりこになり、『シェエラザード』のタイトルのもと、詩の連作を書いていた。詩は、ライム(押韻)がないものでも、リズムに満ちていた。おそらくこのリズムの特質がラヴェルを引きつけ、三つの詩に音楽をつけたいと思ったのだろう。ラヴェルの求めに応じて、クリングソルは『シェエラザート』を数回朗読したので、詩の言葉の感覚をラヴェルはつかむことができた。興味深いのは、ラヴェルが選んだ詩、「アジア」「魔法の笛」「つれない人」は、音楽的要素は少なく、詩的というより説明的なものだった。
この三つの歌は、一つ一つが独立しており、様式もそれぞれで、豊かな色彩で描かれた3枚のペルシア細密画に例えられてきた。この中でラヴェルのバラエティに富んだオーケストレーションの技が見られる。ラヴェルは画家がパレットで色を選ぶように楽器を使用し、常に新たな組み合わせと微妙な音の効果によって実験をしていた。
ラヴェルのオーケストレーションはロシア人作曲家からの影響が明らかである一方、リムスキー=コルサコフの同名の作品『シェエラザート』を想像させるものはほとんどない。コルサコフの輝かしい、ほとんどまばゆいといっていい、ときに奔放とも言える箇所も、ラヴェルは上品さと洗練を保っている。ラヴェルの『シェエラザート』は熱情や官能を表してはいても、彼の潔癖で几帳面な気質によって制御されている。
他の歌ものと同様、クリングソルの詩の使い方においても、ラヴェルは話し言葉を音楽に自然に当てはめる努力を見せている。またここでも、いつもそうしているように、テキストを音楽のために犠牲にすることより、言葉の意味を解釈することにより大きな興味を見せている。音楽の動きの主要部分は伴奏に任せており、歌唱は詩の言葉に従い、解釈を進める。これは「アジア」の中で特に発揮されている。ここではソプラノは船で東洋へ行く夢を歌い、その船は「巨大な夜鷹のように、金色の空で、パープルの帆をひろげる」。ソプラノが、ひとめ見たいと願うアジアの不思議を一つ一つ歌っていくとき(ペルシアが、インドが、中国が見てみたいと)、オーケストラの弦楽器はいきいきと機知に富み、木管楽器は美しい旋律を奏で、おとぎ話のような空気を生み出す。ハープのグリッサンドが、「傘の下にいる大きな腹を突き出した中国の高官と美しい手の王女たち」の中国を描く。
「魔法の笛」は若い奴隷の物語で、主人は眠っている。若い奴隷がうたう。
弦楽器の小さく優しいささやきを通して、彼女の恋人のフルートのセレナーデが、神秘的に、誘惑するように聞こえてくる。
三部作の最後の歌「つれない人」は、若く美しいよそ者が、入り口のそばを素敵な声で歌いながら通りすぎる。でもそれは知らない国の言葉、「偽りの音楽のよう」に聞こえる。しかしその人は中に入ってこない…….行きすぎてしまう。歌は物悲しいムードで終わる。