ノルウェーの森から届いた詩と歌声(ECM・9月15日リリース) 『風と太陽』
『風と太陽』というノルウェー発のアルバムをリリース前に聴く機会に恵まれました。
『風と太陽(Wind and Sun)』は、音楽のジャンルでは、どこに分類されるとピッタリくるのか。このアルバムを制作したヴォーカルのシニッカ・ランゲランは、Wikipedia(英語版)ではtraditional folksingerとなっています。が、発売元のECMのサイトでは、「彼女はピアノとギターとcontemporary folksongを学んだ」となっていました。「伝統的な」と「現代の」では意味的に真逆です。
アルバムを聴いて感じたのは、唱法はおそらくノルウェーのローカルな民謡に根差した(あるいはそれをベースにした)もので、そこにランゲランの個としての特徴が乗っているのではということ。クリアーで求心的な声、力強くて訴える力のある、どこか神聖な感じを与える歌い手です。
その歌声を聴いていて、ひょっとしたらアイスランドのポップシンガー、ビョークの歌唱における発語や発声も、ローカルな民謡の影響をいくらか受けているのかもしれないと思いました。
歌にとって(どんなジャンルであれ)、歌い手の発声法、発語法はとても重要です。わたしにとってはほぼそれで、シンガーの個性がわかりますし、好きか嫌いかが決まってしまいます。もちろん声そのものの個性も大きいのですが、どんな方向の歌手かは、発声法と発語法で決まるように思います。
このアルバム『風と太陽』は、すべてランゲランによる楽曲で、歌詞(ブックレットでは「poem(詩)」となっている)は、1曲をのぞいてヨン・フォッセが書いています。フォッセという詩人(劇作家)のことは、今回初めて知りました。音楽としての歌、そしてランゲランの歌声の素晴らしさとともに、フォッセの詩にすっかり魅了されてしまいました。
ダブルベースの静かなソロで始まる「It Walks And Walks」は、アルバムの中でわたしが一番強く惹かれた曲でした。人が歩くペースで刻まれるベースの単音、ラ・ラ、シ・シ、ド・ド、レ・レ、ミ・ミ……. が繰り返され、それに乗ってランゲランが歌います。
詩はすべてノルウェー語で書かれていて、歌はノルウェー語で歌われています。そのノルウェー語の響きや発語の特徴が、曲調とあいまって歌の大きな個性になっています。ブックレットには、すべての詩が英語に訳されて載っていますが、(英語になった詩もそれはそれでいいのですが)歌としてはやはり、ノルウェー語で歌われてこそ、という気がしました。
歌はアカペラで歌われるわけではなく、イントロ、間奏、伴奏に、たっぷりとサックス、トランペット、ダブルベース、ドラムスが使われ、またカンテレというフィンランドの民族楽器や(アイヌにも使われている)口琴がランゲランによって演奏されています。カンテレの弾き語り、カンテレとサックスやベースとの響き合い、どれも非常に印象的でこのアルバムの主要なトーンになっています。
楽器編成を見てジャズか、と思われた方もいると思います。確かに、Apple Musicを通すと、登録ジャンルは「ジャズ」となっています。また演奏メンバーはみんな、ノルウェー出身のジャズミュージシャン。ですから演奏のトーンとしてはジャズのようにも聞こえます。ではこれがジャズ音楽か、と言えばそうとも言えません。その理由のひとつは歌がジャズではないから。そしてカンテレという民族楽器(弦楽器)の素朴な響きが、聴く者をジャズの世界の外に連れ出します。
ランゲランの母親はカレリア人(フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる森林と湖沼の多い地方に住む人々)で、カンテレはその地域の民族楽器です。ランゲランはこの楽器のことを子どもの頃、母親から聞いて知っていました。そして二人でフィンランドを訪ねた際、母親から娘に、この楽器が手渡されたそうです。以来、カンテレはランゲランにとって最も自分の心身に近い楽器となりました。
『風と太陽』は、多様な要素によって成り立っているアルバムです。
・ノルウェーを取りまくローカルな歌
・劇作家によるノルウェー語の現代詩
・カレリア人の民族楽器カンテレ
・ジャズの演奏家たちのサックスやドラムス、ダブルベースなど
ランゲランはバルト海沿岸、北方地域の古い歌、民謡、そして中世のバラードや宗教歌にまで遡って探索するプロジェクトに没頭していた時期があります。その体験を反映してか、彼女のつくる音楽世界は、時代の領域をも越境しているように聞こえます。
境界のない、何々とカテゴリー分けしにくい音楽は、メインストリームの商業音楽を聞きすぎた耳に対して、思わぬパワーを発揮することがあります。それは今の人間はどこの人であれ、どこに住んでいようと、多かれ少なかれmulti -(マルチ)な側面を持っているからではないかと。逆にいうと、ジャンルのはっきりした、単一の枠組みしか見えてこないスクエアなもの、次の展開がすぐ予測できるものは、今の人間にとって退屈とも言えます。たとえば「これこそが唯一無二のジャズだ」とばかりのジャズの演奏。あるいは一部の隙もない由緒正しすぎる演出のオペラやバレエ。曲調から声の出し方まで「20世紀アメリカのスタンダードの再現」のようなヴォーカル曲。そういった楽曲や演奏はわかりやすいかもしれませんが、過去をなぞるだけ、音楽的な興奮を与えてはくれません。
わたし自身は、このアルバムを未知の領域に足を踏み入れるような気分で、胸をときめかせながら、はるか北の森に、その自然やそこに棲む人々や生きものに思いをはせながら、じっくりと楽しんで聴きました。
*アルバムの中から先行リリースされた「When the Heart Is A Moon」(2023年8月11日)↓
美しいカンテレのソロで始まる、このアルバムの中では親しみやすくソフトなトーンの楽曲です。
シニッカ・ランゲラン(Sinikka Langeland):ノルウェーの南東部キルケナルに生まれる(1961年 - )。パリとオスロで音楽を学んだ後、「フィンランド人の森(ノルウェーとスウェーデンにまたがる地域)」で、この地域の古い歌や音楽のリサーチをする。1994年、最初のCD『Langt Innpå Skoga』をリリース。4枚のアルバムを出した後、ECMより『Starflowers』(2007年)を発表。今回の『風と太陽(Wind And Sun)』は、ECMレーベルとしては6枚目のアルバムとなる。
ヨン・フォッセ(Jon Fosse):ノルウェーのハウスゲン出身の劇作家、作家、詩人(1959年 - )。多くの著作、戯曲作品があり、日本でもいくつかの作品が上演されている。詩集として出版されたものとして8冊の本がある。『風と太陽』の中では『Hund og engel』 (1992)、『Stein til stein』 (2013)などから詩が選ばれている。
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