死を選ぶ生き方
この度さわかみ投信さんの「叶えたい夢」という投稿コンテストに応募してみることにした。
私の叶えたい夢は、ズバリ『尊厳死』の導入である。
死生観に関わる難しいテーマだが、読んでみてほしい。
尊厳死とは簡単に言うと末期癌などで治癒の可能性が低い場合に、個人の意思で延命措置を行わず自然な死に向かわせることである。
海外ではスイスやオランダなど一部の国で安楽死(※安楽死と尊厳死は意味が異なる。安楽死については後述する)が認められているが、日本では尊厳死も安楽死も認められていない現状である。
なお、尊厳死ないし安楽死の導入に関しては国の方でも尊厳死の立法化を目指す党派が活動を続けているが、実現には至っていない。
先程登場した、安楽死という概念がある。
尊厳死は主に治癒の見込みがない場合に対して延命措置を行わないことだが、安楽死は薬剤などで積極的に死に向かわせることである。
知っている人は知っているかもしれないが、手塚治虫の『ブラックジャック』に出てくるDr.キリコが行っているものが安楽死である。
言葉の問題にもなって難しい部分があるかもしれないが、私が叶えたいのは「尊厳死」の意図の元の手段としての「安楽死」である。
尊厳死は人が尊厳を保ったままで死を迎えることを意図して延命措置を中止することであり、積極的に死に向かわせる安楽死とは異なりあくまで死は自然に訪れるものである。
死が自然に訪れるのは望ましいことだが、死に対する選択権はなく結局待つしかないという課題がある。
いや、敢えて早く命を終わらせようとしているわけではない。
それは天寿を全うするのが一番幸せな最期だとは思っている。
人の尊厳を尊重したいのだ。
私は医療職として生命が生まれる瞬間も、生命が旅立つ瞬間も見てきた。
死産などで赤ん坊が亡くなる場合は、彼らには現状意思決定を述べる手段がないので哀しいことだが選択権という意味では仕方がないことだと思う。
ただ成人を超えた場合、自分の死を選択することは大いなる権利になるのではないかと思う。
私の母は全身転移した末期癌で60歳の若さにして亡くなった。
まだ若く意思決定する力があったということもあると思うが、母は抗がん剤の中止のタイミングや延命措置は不要であること、自宅看取りなど綺麗なほど全て自分で決めて亡くなっていった。
当時は現実に向き合うことに一生懸命でついて行くのがやっとだったが、思い返すとあれはまごうことなく尊厳死だったと思われる。
世の中は医学の進歩や食生活の変化により長寿化、高齢化が進んでいる。
それ自体は文明の進歩を誇ることができる面もあると思う。
しかし反面、高齢者にとって残された時間への不安は増大している。
仕事を退職して生計は成りたてられるのか?
伴侶が亡くなったら?
子や孫は世話をしてくれるのか?
生きることがむしろ負担になっている時代が来ているように思う。
そんな中、選択肢の一つとして自分の死のタイミングを選ぶ権利があってもいいのではないだろうか。
例えば長年連れ添った夫婦で手をつないであの世に飛び立つ。
100歳の記念すべき誕生日をその日にする。
親戚や友人など大切な人をたくさん招待してセレモニーを開いてその日を迎える。
生きている時に、自分で大切な人に思いを伝えたくはないか?
私は伝えたい。
また、話は少し違うが、現代はAI時代と言われている。
このままだと現在存在している職業の大半をAIが担うことになると言われている。
確かに書類作成や管理業務などもAIの方が正確な部分があるだろう。
さらに今では作曲や絵画などクリエイターの分野もAIが担うようになってきている。
このままでは、人が能力を発揮して活躍する場はどんどんと減っていくことが予想される。
というか、その流れに逆らうことは不可能に近い。
そんな中、今まで避けてきた死こそ人が踏み込んでいく分野だと思うのだ。
死こそ、人に看取ってはほしくないか?
死を看取るというのは究極のサービス業なのではないだろうか。
これはこれからの時代、人だからこそ取り組んでいく一つの分野なのではないかと思う。
人生は選択である。
もちろん死は重要な機会であり、慎重に扱わなければならない。
尊厳死を制定する上では、然るべき専門家の意見を聞いた上で法を作る必要がある。
目的は「人の尊厳を尊重すること」であり、「早く死なせること」ではない。
そこを見誤ると本当にはまだ亡くなるべきではない命が無くなってしまう可能性がある。
決して命を粗末に扱ってはならない。
そのためには専門家も含めて複数の目で見て判断する必要がある。
人がどう生きるのか、それは人類の永遠のテーマである。
人が生きる上で、社会も随時変わっている。
働き方も、雇用社会から個々で働く社会にシフトしている。
家庭やパートナーシップのあり方も多様になってきている。
つまり、幸か不幸か選択肢の多い時代となっている。
その中で、死だけが寿命もしくは医師の判断に委ねられ、選択肢がなく取り残されているように感じられる。
社会に合わせて変えなければいけないのは、死の分野も含まれている。
繰り返すが、生き方の選択肢を増やしたいのだ。
寿命を全うするのも良し、家族や医師の判断に任せるでもよし。
その選択の一つに自分で死期を選ぶことも入れてもいいのではないだろうか。
人が生きる上の選択肢として、死を選ぶ権利を導入する。
それが私の叶えたい夢である。