幸い(さきはひ) 第六章 ⑨
第六章 第九話
桐秋の無防備な姿に、千鶴は、愛しいという気持ちがあふれてはじける。
そしてその気持ちのまま、いつも恋人らしい言葉やふれあいをくれる桐秋に、自身も何か告げたくなった。
これならばと、千鶴は秘めていた想いを口にする。
桐秋は起きているか寝ているかわからない。
それでいい。
夢うつつで聞いてもらうくらいでないと恥ずかしい。
「桐秋様とこの離れの桜の下でお会いした時、私も幼い頃の桐秋様と同じように、桐秋様を桜の精だと思ったのです」
千鶴は桐秋の髪をすく手を止めることなく、自然とこぼれる笑みを浮かべ告げる。
「桜の花びらが満天に舞う中、薄墨色の着流し姿で立たれている貴方様はあまりにも美しくて、この世のものではないようでした。
また、貴方様が、桜の花を見上げる表情はとても悲しそうで、その存在を儚く感じました。
ですから、貴方様が去ろうとした時、袂を掴んだのです。
消えてしまわないようにと。ここにいてくれるようにと。
貴方様がこの世界に存在する人間でよかった。
おかげで私はこうして、貴方様にふれることができる」
千鶴は言い終わった時、少し夢見がちな表情を浮かべていた。
しかしすぐに、本心から次々とこぼれでた言葉が恥ずかしくなり、頬をぽっとさせる。
――それでも伝えたかった。
千鶴の偽りない素直な気持ちだったから。
「お互いに桜の精にあったのだな」
やはり桐秋は起きていたのだろう、閉じた瞳のまま微笑んだ。
「そうですね」
桐秋の言葉に千鶴も穏やかに笑みを浮かべる。
千鶴がそのまま髪を撫でていると、桐秋の胸の動きが一定になる。
今度こそほんとうに寝入ったようだ。
そんな桐秋の美しくも、どこかあどけない寝姿を千鶴が慕わしく見つめていると、桐秋の睫が抜けて、白い頬に付いているのに気づく。
「見つけた」
千鶴はそれを手に取り、目をつむった後、そっと息を吹きかける。
どうかこの刻が永《なが》く続くように、と祈りを乗せて。うろ覚えの遠い昔のおまじない。
睫はふわっと浮き上がり、庭の遠くの方へと飛ばされていく。
千鶴はそれに笑みを深くするが、睫が消えた先にある木々達はそんな願いとは裏腹に、次の季節を告げるよう、ほんのりと自身の色を変え始めていた。
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