幸い(さきはひ) 第一章 ②
第一章 ②
西野診療所の仕事は朝の清掃から始まる。
「病院はいつでも清潔に保たれていなければならない」
医師である千鶴の父がいつも口を酸っぱくして言っている言葉だ。
特に町の診療所は地域の住民にとって最初に駆け込む病院であり、患者はどんな病を抱えているかわからない。
したがって患者の病を悪化させる原因を作ってはいけないし、他の患者にもうつしてはならない。
事前に防ぐため、気をつけておくことは、病院を常に清潔に保っておくこと。
千鶴もそれを心に留め、重箱の隅を楊枝でほじくるように、毎朝、隅の隅まで掃除している。
千鶴は最後に靴箱の棚を拭き上げると、竹箒を持ち玄関先に出る。
そうして掃き終える頃になると、いつも最初に来る近所の山高帽を被った老紳士を笑顔で迎えるのだ。
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診療所での千鶴の仕事は多岐にわたる。
医師である父の補佐から、経理、はたまたご近所の献立相談まで。
文明開化より半世紀。
多種多様な西洋の波が生活に浸透しつつある時代。
束髪もその一つであるが、食文化にも影響は及んでいる。
西洋料理が出先で食べられようになり、西洋野菜の栽培も行われるようになった現在。
西洋の食を身近に感じられるようになってきたが、それを日常生活に取り入れるとなると悩む人も多い。
そこで千鶴は、看護婦養成所で受けた西洋料理や栄養配分についての授業を生かし、西洋野菜やこれまで飲食の行われてこなかった栄養価の高い牛乳を使った献立を積極的に考案している。
料理はできるだけ手軽に作れるものをと意識しているため、近所の奥様方にも好評だ。
まだまだ看護婦としては新米の千鶴だが、少しずつ己になせることを考え、実践している。献立づくりもその一つだ。
朝の忙しい時間を過ぎると、父は往診に出向き、千鶴は待合室に場所を移す。
父は診療所に来る人を誰でも拒まない。そのせいで、待合室は老人の寄合所となっているが、父はそれも治療の一環だと言う。
診療所に来て、誰かと話すことは物忘れの防止になるし、安否確認にもなる。
千鶴もその父の考えに賛同しているし、千鶴自身、お年寄りと話すことは好きだ。
長く人生を歩んでいる人と話していると、若い千鶴は教わることが多い。
人生の先輩達は、昔ながらの薬草の使い方や、漬物の塩加減のコツなど、生きていく上で役に立つ、古くも新しい知識を毎度千鶴に優しく教えてくれる。
父と二人暮らしの千鶴にとって、自身を孫のように扱ってくれる老人たちのまなざしは温かく、その柔らかな温みをありがたく感じながら、千鶴は今日も年長者の長い話に耳を傾けるのだ。
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